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なぜかくも難解な本を僕は読むのか

「鞄、重そうだね、何が入っているの?」 
「本です」
「へえ! 何の本?」
「ミシェル・フーコーとかですね」
「ん? ミシェル? どんな本なの、それ」

 年上のおねえさまにそう訊かれて、僕はとっさに答えられなかった。
 不格好に膨らんだ鞄の中にはフーコーの「狂気の歴史 古典主義時代における」が入っているんだが、はて、この本、いったいどんな本なんだい?
  一応、図書館の分類コードで医学に入っているからには、精神医学系だと思っていいのだろうが、読んではみたがさっぱり分からん。

 フーコーの著作を読むのはこれが三冊目くらいだったと思うが、僕はこの人が何を言っているのかほとんど理解したためしがない。
 理解できない本など読む意味があるのかと言われてしまいそうだが、これが僕のような鼻持ちならない薄らバカには大変有効なのだ。
 僕は自分がどれだけ浅薄な阿呆か確認するために、こうして時折読めもしない難しい本を読むように心がけている。

 おそらくなんだけども、このフーコーという方。相当に賢いんじゃないだろうか。もともと持っている知識が豊富で多岐にわたる。
 こんな字の細かい注釈なんかいくらあっても足らない。僕にはこの人の思想を理解するだけの素地が、全然ないのだ!

 それにこれはさらにおそらくなんだけれども、このフーコーという方。相当の美文家なんじゃないだろうか?
 僕はフランス語は赤点すれすれだったから、当然日本語訳で読んでみるんだけれども、目が滑ってしまってさっきから「で、それがなんだい?」状態だ。
 ああそれはフランス語で「エ・アローズ?」というらしい。それだけなんか印象に残っているので合ってるはずだよ。
 綴り? そんなもん僕の知ったことじゃないね!

 これはフランス語に限らないけど、美文というものは壊れやすいガラス細工のようなものだ。
 本当に美しくキラキラ輝くけれど、残念なことに、訳すとめためたになってしまう。
 訳者の腕前というより、美文の宿命だと思う。そういう粉々になった美文の破片のようなものが、訳文からにおい立ってくる。
 これがフーコーの読みづらさのもう一つの要因だと僕は睨んだ。うん、まあ……フランス語読めないから、ただのカンなんだけどさ。

 だからきっとこの人の本を本当に理解したかったら、原文でなくともせめて、フランス語がそこそこ理解できる程度の語学力は要るんだろうね。
 それとフーコーにとっての「一般」教養が。
 ちょっとどちらも、僕には身に付きそうもないんで途方に暮れている。

 賭けてもいい。僕は生涯、この人の真価を理解できないだろう。
 まあ、それでもいいんだよ。さっき言ったろ? 僕は理解するために彼の本を読むんじゃなくて。
 理解できないことを確認するために読むんだからね。

 ああそうそう、話は戻るけど、僕がせっかく話しかけてくれたおねえさまになんて答えたか、最後に書いておかなくちゃ。
「ミシェル? どんな本なの、それ」
 僕は少し考えた後で、力強くこう言い切った。
「とにかくめちゃくちゃ頭のいいおっさんの書いた本です!」
 おねえさまは、ものすごく不憫なものを見る目で僕をみた。
 僕もおねえさまもそれからフーコーも。誰も何も間違っちゃいないさ。

 


(了)

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