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待てば待つほどに

 財布よし、時計よし。身だしなみ……たぶん、よし。靴も昨日ピカピカに磨いたし、髪も跳ねてない。さっきちゃんとミントのガムも二個噛んだし、何の問題もないはずだ。
 僕はスマホの画面をスクロールして、待ち合わせ場所がここで間違いないことをいま一度、確認しておく。あと十五分でカナコさんがやってくる。僕は自然に緩む口角を引き締め直して、すぐそこにある改札をじっと見つめた。
 カナコさんっていうのは僕の大学時代の先輩で、一言で言うとたぶん「少し残念な美人」だと思う。いやひょっとしたら世間のみなさんは「かなり残念な美人」くらいに思っているかもしれない。
 というのもあのひと、気が強くてわりとサバサバしてるんだけど、どうかしてるんじゃないかってレベルの食いしん坊なのだ。ただ食いしん坊なだけならそれはそれでいいんだろうけど、あのひとの場合いちいち本当に飯に厳しい。さすがに三十路を越えて結婚相手が見つからないことに焦りは感じているらしく、ここんところずうっと婚活とかいう集団見合いだか中年合コンだか知らないけどなんかそういうやつを繰り返しているにも関わらず、ほとんどの男性と飯が原因で破局している。
 こないだなんか、メニューに全然合わないワインを選ばれたせいでおいしくなかったからその場で説教したら相手の男、怒ってあたしにワインひっかけてきたのよ、ねえちょっと信じられる? 白ワインだったからまだマシだけど。なんて言ってた。ワインひっかけるような男もどうかと思うけどきっと、そうされても仕方ないほどカナコさんがひどいこと言ったに違いないんだ。とにかくカナコさんときたら普段から自制心だとかブレーキなんてないようなひとだけど、こと飯に関してはもう理性なんてないんじゃないかってくらいに、ひどいんだから。
 頭の中がカナコさんのこと(ただし主に悪口)でいっぱいになってきたところで、僕は時計に目を走らせる。あともう五分くらいだ。今日はカナコさんが気に入ったという洋食屋でランチの約束をしているんだ。僕は期待ではちきれそうな胸に空気を送り込んでひとつ、溜息をつく。
 焦るな、はしゃぐな、慌てるな。カナコさんの姿が見えたからってこないだみたいに満面の笑みで駆け寄ったりなんかしてはいけない。ここは大人の余裕で「ああ、カナコさん。こんにちは。今日も素敵なお召し物ですね」くらいのことを言えなきゃいけない。目標は英国紳士。そうだ今日の僕は、英国紳士になるんだ。

 時計の針がぴったりと重なり合って、僕の足元をハトが首を傾げながら歩き去っていった。約束の時間、ちょうどだ。
 僕は改札の方へと首を伸ばす。まだかなあ。まだだろうなあ。まあ、ちょうどぴったりに着く電車ってのもなかなかないものだから、きっとあと数分で駅に着く電車に乗ったんだろう。そんなの遅れるうちにも入らない。
 そうだカナコさんに会ったら何の話をしようか。こないだ見つけたちょっと珍しいサンドウィッチの話はどうだろう。ファラフェルという名前のコロッケが入っていたんだけど、カナコさんは食べたことがあるだろうか。なんでも中東の食べ物らしく、ひよこ豆にスパイスを混ぜて丸めて揚げたもの、なんだとか。かかっていたソースもフムスとかいう豆をすりつぶしたペースト的なやつで、これに辛みのアクセントが入ってびっくりするほどおいしかったんだ。珍しいなと思って試しに買ってみたんだけど、中東の食べ物っていうのもなかなか面白い。イスラムの影響で動物性の食材を使わないサンドウィッチなんです、という売り文句から想像もできないくらいうま味もあったし食べ応えもあった。カナコさんには必要ないかもしれないけれど、ダイエットに興味のある女の人なんかには抜群に受けそうだ。もしまだカナコさんが知らないようなら、今度は僕が買ってきてあげて二人で公園で食べたりしたら楽しいと思う。代々木公園とか、日比谷公園……ああそういえば、もうすぐ紅葉がピークなんじゃなかったっけ。
 僕は早くも次の予定につながりそうなことを思いついて満足する。手首で時計が約束の時間から五分ほど経過したことを知らせてくるけれど、だがまだ慌てるような時間じゃない。僕の心の一休さんが「あわてない、あわてなーい」と言ってあくびを噛み殺した。

 ……カナコさんが現れない。しかも何の連絡も入っていない。僕はさっきから三十秒おきに更新ボタンを連打して、まるで更新マシーンにでもなった気分だ。
 ただいまの時刻は十二時半。これはもう、立派な遅刻じゃないだろうか。
 とはいっても、カナコさんが遅刻してくることは別に珍しいことなんかじゃない。珍しいとしたらたぶんその理由の方で、普通の女のひとだったら「ごめんなんだか服がきまらなくって」とか「寝癖が全然とれなかったの!」なんて言うと思うんだけど、あのひとときたらまあ理由の半分が深酒だ。カナコさんはいい年してまだ、自分の限界が分かっていない。
 あのひとまーた昨日飲み過ぎてんのかな、なんて僕は思う。婚活男たちみたいに小さい男だと思われたくないからこっちから連絡なんてしたくないんだけど、ひょっとしたらあのひとまだベッドでいびきでもかいてんじゃないだろうか。ちなみに僕は一度もカナコさんと同室で寝たことがないので、ほんとにいびきをかくタイプなのかどうかなんか知らない。ただ、いびきかいてたり寝相が最悪だったり寝言魔だったとしても、特に不思議だとは思わない。だってカナコさん、奥ゆかしさとかそういうものとは無縁なんだもの。
 しかし飲み過ぎたとしたらそれって、一人ではないよなあ、たぶん。……あれ? あれ、あれ、あれれ? もしかしてカナコさん、ついに婚活だかトンカツだかが成功しちゃって、恋人が……いやいや、まさかそんなはずが。だってあんな女、いくら婚活したってそりゃあ絶対成婚なんかしないだろうなあってくらいに高望みで要求が多くて、妥協しなくて、そのうえ性格があれなんだ。そう簡単には結婚になんてこぎ着けないとは思うんだ……けど……蓼食う虫も、とか言うしなあ。それにもし奇跡的にカナコさんと飯の趣味がぴったりで高収入高身長その上カナコさん好みの顔の男がにっこり笑って「あなたのような女性を探していました」なんて言ったりしたら……!
 うわわわわわわわっ! 大変だよ、一休さん、ひとやすみしてる場合じゃないぞこれ!
 僕はあわあわと空を見上げ、改札を見つめ、時計を眺めて、それからまた空を見上げた。
 カナコさんからの連絡はまだ何も入らない。

 遅い。さすがに、遅い。
 あのあと心の一休さんにヘッドロックをかまして黙らせて、僕は意を決して電話をかけたんだ。カナコさんの代わりに自動音声がメッセージと名前をきいてきたけど、メッセージなんてそんなもん、色々ありすぎて一分やそこらじゃ足りるわけない。僕はとりあえず「僕です、連絡ください」とだけ吹き込んでまた待つことにした。
 時刻は一時をまわって、僕はとうとう一時間以上もここに立ち続けていることになる。まわりのひとはどんどん入れ替わっていくのに僕だけが取り残されて、恥ずかしさよりむしろ心細さが募ってくる。
 しかしなぜカナコさんは連絡ひとつ寄越さないのだろう。爆睡しているんならいいけど、それにしたってもう一時だ。どれだけ飲んだらこんな時間まで寝続けるっていうんだろう。
 ひょっとしてこれ、寝てるんじゃなくてさ。僕と会いたくないからすっぽかしたんじゃないかな。
 いや、カナコさんに限ってそんなことはない。あの女はたぶん、フるときはすぱっとサクッと正面からフッてくるタイプだ。
「あーごめん、悪いんだけどさ、あたしもう君の顔も見たくないからもう二度と連絡しないでくれる? じゃ、そういうことで!」
 …………。
 自分の妄想のはずなのに、あまりにも鮮烈なイメージが浮かんできて僕はうちひしがれる。カナコさん、僕が一体なにをしたって言うんですか! 何が気に入らなかったというんですか。っていうかそもそも、僕たち付き合ってすらいませんよね?
 そうだ、僕とカナコさんは今まで一度も付き合ったこともないし、指一本触れたことすらない。僕はカナコさんにとってあくまでも東京グルメ研究会の後輩で、現在はそれにプラスして愚痴聞き係とかそんなもんなんだ。はっきり言って僕は愚痴聞き係としては相当に優秀だと思う。まああくまでも対カナコさんに限るから、このスキルを利用してひと儲けなんてできそうにもないけれど。僕の適職はただひとつ、カナコさんの夫だ。まあそれも、カナコさんが例の婚活とやらに絶望して僕で妥協する、という考えに至らなければならないわけで。僕の方は準備万端、いつでもウェルカムなんだけど、それより先に嫌われてしまっては元も子もない。
 一体何が原因だ? 飯のことか、やっぱり。でも基本的に僕はカナコさんの飯の趣味にケチをつけることはないし、そもそも僕のグルメの師匠はカナコさんなんだ。それが世間で正しいかどうかとか主流かどうかということを全く疑いもせずに、僕はカナコさんの食に関するこだわりをリスペクトしてきたしこれからもする。カナコさんがうまいと言ったらそれはうまいもので、うまいと思えないなら僕の舌が貧乏舌なんだ。もうそれでいい。それで全然かまわないから、僕はカナコさんがうまいと思うものをうまいと思いたいし、カナコさんの味覚を全面的に信じている。
 だったら何が原因だ? いやそりゃあ僕だって色々と至らない人間ですよ。主に年収とか知性とか、あとは身長とか。カナコさんは背も低くない方だからハイヒールで八センチとか嵩増しされちゃうと僕の方が低いんじゃないか疑惑が最近わいては、いたんだ。僕の中で。でもそれならカナコさんにだって原因はあるわけで、僕は辛うじて日本人の平均身長くらいはあるんだから、カナコさんがあんまりハイじゃない程度のヒールを履けば解決することじゃないかと思うわけだ。年収はまだこれから伸びる可能性だってないではないし、どうしても気に入らないと言うなら転職だって辞さない構えだ。ただ、転職したところで年収が上がる保障もないし、そもそもカナコさんが高給取りなのだからそれでいいじゃない、という気持ちもある。
 ……え、もしかしてそういうところか? 僕のそういう、カナコさんをリスペクトして一歩引いたような態度がいけなかったというのか? でもちょっと考えてもみてよ。だったらあんた、黙って俺について来いタイプの男とうまくいくとでも思っているのかと。だってカナコさんだよ? そんなもんマッチョとマッチョのぶつかり合いじゃないか、暑苦しい。絶対うまくいくわけないですからね? だいたいカナコさん、黙って誰かについていったこと今まで一度もないんですからね。
 ……あのひと、ほんとに自分が見えてないんだよなあ。
 僕は頭を抱えてついにその場にしゃがみ込んだ。カナコさんは、まだ来ない。

 いや待って、これさすがにおかしくないかな。もう二時を過ぎた。カナコさんがまだ来ない。コールバックもないし、メールもない。
 もしかしてこれ、何かの事故に巻き込まれて連絡すらできない状況なんじゃないのか。
 そう思うと心臓がばくばくしてきて、体中がぞくぞくしてくる。
 どうしよう警察に通報しなくていいのかな。でも何て言うんだ? あのーすいません、先輩が待ち合わせに二時間遅れてて連絡が取れないんでたぶん事故だと思うんですけど。バカか? バカなのか? そんなん僕が警察官だったら「あーきみ、それは諦めた方がいいよ」とか言って鼻で笑うわ。もっとなんか客観的な証拠がないと……。
 僕は握りしめていたスマホをタップして、地域のニュースを漁り始める。
 ええと電車の遅延は……ん? 電車……電車かあ……。
 きっとカナコさんは今日、ちゃんと間に合うように電車に乗ったんだ。だけどそこで……。
「ねえママ、あれなあに?」
 小さい子どもが電車の隅に置かれた小さな箱のようなものを指さして、カナコさんはふと何気なくそれに目を向ける。忘れ物だろうか、小振りのアタッシェケースのようなものが置いてあり、周囲に持ち主らしき者は見えない。
「さあなんだろうねえ」
 暢気そうに母親が答え、子どもはうふふと笑っている。カナコさんはまっすぐにコツコツとハイヒールの音も高らかにその箱に近づく。
「なにこれ。音がしてる」
 チクチクタク。時計のような音が聞こえて、カナコさんはそっと静かにケースを開ける。周囲のひとたちも異変に気がついて、首を伸ばしてカナコさんを見ている。
「えっ?」
 いつになく鋭い声を上げたカナコさん。中には色とりどりの配線と、点滅するデジタル時計……誰かが叫び声を上げた。
「ばっ、爆弾だああーっ!」
 きゃーとかわーとか叫び声が上がり、座っていたひとたちが一斉に立ち上がる。
「ママ、こわーい!」「え、うそマジで爆弾っ?」「やべーじゃん」「にっ、逃げろおおっ!」
 ちょうどその時、アタッシェケースの横に置いてあった携帯電話が鳴り始める。
 ごくりと唾を飲み込んで、カナコさんが通話ボタンに手を伸ばした。
「はいもしもし?」
「ケケケ。コレハ バクダンダ。デンシャヲ トメタラ バクハツスルゾ」
「なんですって?」
「イマ オレノナカマガ JRニ レンラクシテイル。オマエタチハ ヒトジチダ!」
「なんて卑劣な……!」
 そのとき車内に緊急アナウンスが入った。動転した車掌が叫ぶ。
「お客様に連絡です! この電車はたった今爆弾犯に乗っ取られました! ここからは停車せず運行します!」
 悲鳴が上がる中、カナコさんは忌々しげに唇を噛んだ。携帯電話はもう切れていて、履歴を見たけれどかかってきた番号は非通知だった。
「……ツイてないわね、あたしも」
 ふっと笑ったカナコさんの足元からチクチクタクと音がする。カナコさんを乗せた電車は今にも前の電車に追いつこうとしていた……!

「カナコさあああああんっ!」
 急に切羽詰まった声で叫んだ僕に、まわりのひとたちの視線が突き刺さる。
 いやいやいや。これが叫ばずにはいられませんからね? カナコさんは無事なのかっ、ていうか前から思ったけどJRってダイヤが過密すぎなんだよ! 五分おきに電車が来るのはありがたいけどさ。一回なんかあったらもう全部玉突きみたいになっちゃうじゃん。朝とか相当ひどいからね? じゃなくて、カナコさん。カナコさんの乗った電車に爆弾が……! っていうかそんな電話いちいち出るんだったら先に僕の……いや待て。待て待て待て。
 僕は冷静にも気がついた。そこから見える改札、まさにそのJR駅だ。そしてかれこれ二時間見張っていたけれど異変なんて一度も感じなかったぞ。
 僕は念のため電車情報を調べて胸をなで下ろした。オールグリーン。関東各社、全線平常運転だ。よかった、とりあえずカナコさんは爆発はしてないらしい。
 ……ということは、こういうことか? 僕の中でまた不安が鎌首をもたげ始める。

「ああもう、遅刻しちゃうじゃない!」
 長い髪を靡かせながらカナコさんが路地を急ぐ。いつもならバス通りを歩くところだが、若干のショートカットになるからと細い裏道へ進路を変える。
 薄暗いけれど今は白昼。カナコさんはコツコツと靴音を鳴らしながらその道を……
「っ?!」
 カナコさんが大きく目を見開いた。
 どんっと強い衝撃を感じ、誰かが体当たりをしてきたように感じた。ちょっと危ないじゃない、どこに目ぇつけてんのよ、と言いたかった言葉は一言も音にはならず、かわりにひゅうひゅうと苦しげな呼吸音が漏れる。
「……っ!」
 ズキン、と急に痛みを覚えたカナコさんは反射的に腹を押さえてそのまま前に倒れ込んだ。倒れる前に目に灼きついたのは、真っ赤に染まった自分のてのひらと、満足げにニヤリと笑った見知らぬ男……。
 ああもう、ちこく……しちゃうじゃない。
 そんなことを考えながらカナコさんはアスファルトの上、うずくまるようにあの美しい目を閉じた。
「うわあああ、カナコさあああああんっ!」
 再び叫んだ僕に今度は視線は集まらず、かわりにひとが僕を避けていくのが分かった。
 だけど、これが叫ばずにおれようか!
 カナコさんそこは一体どこですか! 一体誰なんですかさっきの男は! っていうか、どれくらい刺さったんですか、大丈夫なんですかカナコさんカナコさんカナコさん! 
 ああもうダメだこれは警察案件だ。殺人未遂だからな! ……未遂……だよ、ね、カナコさん? まさかこのまま……なんてこと。
 うわああああああああ!
 僕は居ても立ってもいられなくなって、せっかく整えてきた髪を掻きむしった。
 カナコさん、無事なのか、カナコさん!
 僕の前を歩こうとしていたハトが僕の顔見てクックルー! なんて鳴いて羽を広げて飛び去っていった。

 さすがにもう待ちくたびれて、僕はその場にしゃがみ込んだまま呆然と改札を見つめていた。あのひと、もう来ないつもりかなあ。電話もつながらないし、メールも……。
 さすがに今日はもう帰った方がいいのかなと思ってゆるゆると立ち上がったところに、後ろから何かが抱きついてきた。
「えっ!」
「ダメ。振り向かないで」
 声は確かにカナコさんだった。でも……。
 硬直した僕にカナコさんの声が続ける。
「君には最後まで言わないでいて、ごめん。実はあたし、不治の病だったの。ほんとはグルメも医者には止められてて……だけどあたし、君とグルメ巡りするのが何より楽しかったから……だから、ごめんね。こんなことになっちゃって」
 意味がよく分からなかった。なのに僕の心臓は激しく伸縮を繰り返して、ねえ、そのせいだろうか。カナコさんの体温が感じられないのは?
「ごめんね、もうあたし行かなくちゃ」
 そう言ってカナコさんは僕から手を離した。僕はダメと言われていたのに勢いよく振り返って、手を伸ばす。
 カナコさんの身体を、僕の手がすり抜けた。
「ばいばい」
 耳元でカナコさんの囁きがひとつ聞こえて、残像すらも残さずにあのひとが跡形もなく、消えた。
「嘘だろカナコさん……」
 じわ、と何かが僕の胸の中に広がってどんどん溢れそうになってゆく。カナコさんがカナコさんが僕のカナコさんが……。

「ごめんごめん、待った……わよねえさすがに」
 眉を八の字にしてカナコさんが歩いてきた。ねえきみ、ずっとここで待ってたの? どこか入ってればよかったのに。っていうか待ってなくてもよかったのに、なんて言いながら遅刻の理由を君のことすっかり忘れて映画観てたのよそれがすごい長尺で、と説明したカナコさんの目の前で僕はなんにも言わずにぼたぼたと大粒の涙をこぼした。
「えっやだちょっと、泣いてんの?」
 びっくりしているカナコさんがあまりにも愛おしくて、僕は泣きながら鼻声のまま叫んだ。
「カナコさん! 本物のカナコさんなんですよね?」
「え? どういうこと? っていうかごめんね、待たせて。ご飯奢ってあげるから、泣き止んでもらっていいかな」
「うっ、うっ……がなござん……いぎででよがつだ」
 英国紳士どころか幼稚園児のようにしゃくり上げる僕にカナコさんは訝しげに首を傾げ、僕は伝わるか分からないけれど今までの不安を全部吐き出すようにぶちまけた。
 カナコさんは意外と辛抱強く僕の話を全部きいて、それから「ふうん」と気の抜けたような声を発した。
「なんだかよく分かんないけど、君の人生、楽しそうね」
 ええ主にあなたのおかげで。
 僕の声はもう声にはならず、僕はしばらくそこでむせび泣いていた。
 カナコさんが待ち合わせ場所に現れたのは結局、午後三時を少し過ぎた頃だった。

(了)

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