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ろくでなし

  まだ人のこころに昭和の残り香が染みついていた頃のお話です。
 その頃は僕も小さくて、世の中のことなんか何にも分かっちゃいないくせに、それでいて何でも理解できるつもりでおりまして、賢しらなことを言っては大人を唸らせるのが好きな、そういう子どもでありました。
 僕のお爺さんは片足でした。地雷を踏んで吹っ飛ばされただかなんだかで、右足が義足で、松葉杖の簡易なものをつきつき外を散歩しては、よく僕に言ったもんです。
 わしはなあ、戦争で足を取られたんじゃ。戦争はいかんなあ、皆死んでしもた。死んでしもたんや。
  僕は首をすくめてこわごわと、お爺さんの足を見やっては気の毒そうに曖昧に笑ってみせました。このひとは父方のお爺さんで、戦後のどさくさで起業して一夜にして富を掴んだ大成金なのです。もう一人、母方のお爺さんはとっくに亡くなっていて、顔も見たことがありません。
 いいえ違います。赤紙は来なかったと聞いています。彼は思想犯なので。生涯定職につかず、戦争にも行かず、本土で肺炎をこじらせて死んだそうです。
  そうすると、僕としては死ぬ死なないに戦争は関係あるのだろうか、という疑問が湧いてくるのですが、それを片足のお爺さんに言うのは流石に酷ですから、黙ってお愛想を浮かべるしかないわけでした。嫌な子どもですが、たしかに賢しらではありました。
 お爺さんはその頃、女のひとと暮らしていました。
 本家には僕の母さんと父さんがおりますから、女のひとは別宅の方に住んでおりました。
 お婆さんは僕が生まれる頃にはすでに鬼籍入りしていたので、不倫なんかじゃありません。
「和歌子ォ、帰ったぞぉ」
 玄関の板張りにどっこいしょと座ったお爺さんに、奥からぱたぱたと嬉しそうな足音が聞こえてきます。
「はいはい、はい。おかえりなさい。あぁら、ユキちゃん、よう来たねぇ、おやつあるでねえ」
「おかまいなく!」
 僕はヒロユキというので、和歌子おばちゃんにはユキちゃんと呼ばれます。女の子みたいではありますが、おばちゃんに呼ばれる「ユキちゃん」には限りない親しみが込められていて、僕はとうてい怒る気になれないのです。
 和歌子おばちゃんは、お爺さんを抱え起こして杖をさっとしまって、気持ちのいいほどてきぱきとお爺さんを居間の方へと連れてゆきます。
 慣れたもんやなあ、と思いながら僕はてれんぱれんとついて行きます。
「今、お茶淹れますからねぇ。ユキちゃんはお手々洗ってき」
「はーい」
 おかまいなくと言ったのは、方便です。そのように言うのがオトナなんだと知っているので言ったまでで、貰えるおやつは、貰います。
 和歌子おばちゃんにしょうが糖と熱々のお茶を出して貰って、僕はお爺さんの話を聞いていました。お爺さんはとてもなまっているのと、総入れ歯で滑舌がおかしいので、半分以上は何のことだか分かりません。僕は理解ったような顔をして「ふんふん」と言っておきますが、それを見て和歌子おばちゃんは
「そないこと言うて、ユキちゃんにはまだ早いやろ」
 と苦笑いをしていました。オトナの話をしていたのかもしれませんが、今となっては分かりません。お爺さんの話で僕が覚えているのは「素人が株と先物に手ぇ出したら、あかん」これだけです。自分は株式会社など経営しているくせに、よく言うよと当時は思っていました。
 和歌子おばちゃんはいつもにこにこしていました。少し背の低い女のひとで、目が大きくて黒真珠のような瞳をしていました。お爺さんとは二十才ほど歳が離れていて、そのことを気にしていました。
「ユキちゃん、また和歌子おばあちゃんとこ、遊び来てなあ。もう大きもんなあ、一人で来ても、ええんよ。おばあちゃんユキちゃんやったら、いつでも大歓迎やわ」
 僕はしょうが糖を貪りながら「うん」と答えました。
 僕を見るおばちゃんの目尻にぱぁっと皺が寄っています。それでも僕にはこの人はおばあさんには見えなくて、女の人は若く見られたがるのだと思っていましたからいつも「和歌子おばちゃん」と呼びました。
「何がおばあちゃんよ、めかけ風情が」
 母さんは台所で憎々しげに言いました。
「いい、ヒロユキ。あんな女のところへ遊びに行くんじゃないよ。芸者が伝染るんだから」
 そんな風に言うもんだから、僕はずいぶん大きくなるまで芸者とホステスの区別がついていませんでした。大学生になって東京に進学してくるまでずっと、誤解していたのです。
 あのひとは芸者だったのでしょうか。だとしたら、たいしたものです。そういえば和歌子おばちゃんはよく日舞がどうのと言っていました。僕は日舞などやるはずもありませんから、意味が分かりませんでしたが、元芸者の日舞ならさぞや上手かったのでしょう。
 一度くらい、見せてもらえばよかったとあとになって思いました。
 母さんは和歌子おばちゃんをたいへん嫌っておりました。そのせいかどうか……いやきっとそのせいでしょうが、和歌子おばちゃんはとうとう入籍せずに最期まで別宅でお爺さんの世話をしていました。
 そのことを、和歌子おばちゃんは僕には一言も言いませんでした。
 中学の制服を着てプラスチック玉のちゃちい数珠を手にした僕に、ぞっとするほど黒染めのよく似合う和歌子おばちゃんがキンとつり上がったまなじりで黙って頭を下げました。艶のある豊かな黒髪がきっちりと抱き合わされて一分の隙もありませんでした。
 僕は本家の末席に、おばちゃんは弔問客の席に座りました。
 和歌子おばちゃんは泣いてはいませんでした。母さんも泣いてはいませんでした。
 母さんはおばちゃんがお焼香するのをじいっと燃えたぎった目で見つめ、父さんの耳元にしたたるように囁きました。
「よく出て来られるものね、さすが芸者は面の皮が厚くて。見てあの口紅の色、赤すぎるでしょうが」
 父さんは「後にしてくれよ」とだけ言って憔悴しきった目で遺影を見つめていました。一度にやらねばならないことが、多すぎたのです。
 父さんもやっぱり泣いてはいませんでした。
 狭い田舎町のことですから、女のひとたちは皆、和歌子おばちゃんを見ていました。じろじろと不躾に細い襟足から帯の形までようく見つめて、それから声にならない声でしきりに何か交信しあって、最後に目配せをしました。
 ようやくお経を終えて、えへんと咳払いをして、お坊様が数珠をたぐりながらもそもそと話し始めました。
 お爺さんの亡くなった日が、会ったことのないお婆さんの命日とぴったり一緒なんだと言う話を聞いて僕はぞうっと重たい気持ちになりました。
「奥様がお迎えに来たのだから、苦しくはなかったのでしょうね」
 美談のように語られるそれはきっと嘘だと思います。
 お婆さんはDVの末、病気になって早死したと聞いています。もっとも当時はDVなんて言葉は知りませんでしたが。
 もしもお婆さんが迎えに来たのだとしたら、お爺さんはたぶん地獄に引きずり込まれたのだと思いました。
 遺言書には、和歌子おばちゃんの名前は書いていなかったそうです。
 和歌子おばちゃんは取り乱したりもせず「あの人らしい話やわ」とだけ言って、それから、父さんに幾ばくかの「お世話代」を請求してきました。具体的な金額については教えて貰えませんでしたが、母さんは目を三角にして怒鳴り散らし、僕にもう二度とあの女と会ってはいけないと言いました。
 だから僕が思い出せる最後の姿は、和歌子おばちゃんのあの凛とした喪服姿です。
 つい先日、田舎の母からこんなメールが届きました。
「ヒロユキ、元気にしていますか。ご飯は食べていますか。そろそろ結婚相手は見つかりましたか。
 あなたが小さい頃なついていた、和歌子という女を覚えていますか。あのひとは先月自宅で孤独死したそうです。お香典は不要です。
 あなたもそうなりたくなければ、早く結婚して私に孫の顔を見せるように」
 母は僕がこの仕事をしていることを、知らないのです。
 なぜだか僕は女のひとというのがどうしても、好きになれないものでして。
 奥様を大切になさった方がよろしいですよ。はは、僕の言えたことでは、ありませんでしたね。
 今日は喋りすぎてしまいましたでしょうか、すみません。
 ええ、それでは、またお目にかかれますように。


(了)

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