ゴッド・イン・ザ・クレープリー

「ちょっと聞いてよ! もう信じらんないんだから!」
 開口一番そう言って挨拶もなくいきなり愚痴をふっかけ始めるこの非常識がブランドものの服着たような女は、カナコさん。学生時代の僕の先輩だ。
 この場合、カナコさんがもともと非常識極まりないのか、それとも僕がカナコさんにとって挨拶その他礼儀を尽くすべき対象に入れてもらえていないのか、問題だなと思う。というかそのどちらも大いにあり得てそうなところが、大きな問題なのだ。
「分かりましたけど……っていうかあの、せめてどこか店に入りませんか? 話はちゃんと聞きますから。ね?」
「どこかって何よ。あんたねえ、そんな軽々しく決めて適当にメシ食おうとしてんじゃあないでしょうねえ」
「いえいえまさか! カナコさんのお好きなところで。僕はどこへでもついてゆきますんで」
 今日のカナコさんはすこぶるご機嫌ななめだ。そもそも今日は婚活でまたひどい目に遭ったらしく、その愚痴を聞かせるために僕を呼びつけたらしいし。ひどい目に遭ったのがカナコさんの方なのか相手の男性の方なのか、聞いてみるまでは明言は避けたいところだ。
 カナコさんのご機嫌をとるために夕食の店選びを全面的にお譲りしたが、カナコさんはチッと鋭く舌打ちしてまだ明かりのつかない街灯を睨みつけた。
「……あー、むしゃくしゃするわね。あたし、ガレット食べたい」
「あ、いいですよ。ガレットですね。そしたらこの近くだとちょっと距離ありますけど松濤……」
 たぶん都内で一番有名なクレープリーの住所を言いかけた僕にえらく鋭い目を向けて、カナコさんは仁王立ちで高らかにこう言った。
「シャラップ! あんたさっきあたしの好きなところに着いてくるって言ったでしょ。もう忘れたわけ、このポンコツ鳥あたま!」
 これだから男ってやつは、と暴言を吐くカナコさんに僕は「お前こそ黙れよこのクソアマ」などと罵るかわりに曖昧な微笑みを返した。見たかこれが常識人の余裕、秘技微笑み返しの術だ。
 僕の秘技が効いたのか、カナコさんはちょっとだけ優しい声で「あんた今、どれくらいお腹すいてる?」と訊いてきた。
「え、まあほどほどに」
「ふん、じゃあダメね。電車はやめて歩いて行くわよ」
「あ、はいまあいいですけど……目的地はどこなんです?」
 なんだか会話の流れに妙なねじれを感じて問いかけた僕に、カナコさんはコンとハイヒールを鳴らしてニヤリと笑った。
「駒沢通り沿いよ。まあ最寄り駅は学芸大とかかな」
「……は?」
 いろいろな感情をひらがな一文字に込めに込めた僕に、カナコさんは長い髪を翻して真っ白なパンプスで颯爽と歩き出した。
「ほら、さっさと歩かないと日が暮れちゃうわよ!」
「いやそれさっさと歩いたって暮れますよね? ここどこだと思ってんですか、電車乗りましょうよ。すぐそこJR……いや、タクシーでもいい。タクシー代僕出しますから、ねえ、カナコさん? カナコさーんっ?」
 慌ててカナコさんの背中を追いかけながら、こっそり僕はグーグルマップで学芸大までの所要時間を調べた。タクシーで十五分、電車だと乗り換え有りで三十分、そして徒歩は四十五分と表示されていた。

 夕暮れの街を歩きながらずっとお見合い相手の男のセンスが一から十まであり得なかったという話を聞かされて、僕は適当に相槌打ちながらへえこんなところに自衛隊の幹部学校あったんだ全然知らなかったなあとかこの坂えらく急だけど鍋が転がるからなべころ坂って言うんだふーん、なんて思っているうちに、ようやく目的の店に到着した。
 グーグルマップは偉大だなあと思うのは、所要時間が四十五分と書いてあったらほんとに四十五分きっかりで到着するところだ。
 やっと食べられるんだと息をついた僕を見透かすように、カナコさんはニッと笑って口を開いた。
「先に言っておくけど、ここ、神様がいるから」
「へ? どういう意味ですかそれ」
「そのまんまの意味よ」
 楽しそうにそんなことを言いながら勝手にドアを引き開けて、カナコさんは店の奥に「こんばんはー」と明るい声を投げかけた。
 店内はとても狭くて、すでに何組かの客が入っていた。客席の一部に瓶ジュースのたぐいが入った冷蔵庫が置いてあるし、売り物なのかストックなのかよく分からないジャムやはちみつなんかがすぐそこに詰んであるし、店内BGMは一言も理解できない流暢なフランス語で、そしてなにより、チーズの焼けるすごくうまそうなにおいがしてきて、お世辞にもゆったりなんて言えない席についた瞬間、僕はもう間違いなくうまいもんが食えることを確信した。
 やたらおしゃれな字体で書かれたメニュー表をじっと見つめていたら、カナコさんが対面から突き刺すような視線を送ってきた。あれだけ歩いて腹が減っていて、すぐにも注文したいんだろうなとは思うけど、ここで変な注文をして見合いのセンスなし男と同列に扱われるのは絶対に嫌だ。
 この人ほどじゃないとはいえ、僕だって学生時代は東京グルメ研究会の一員で、今もそこらへんのOLよりは断然食い物にこだわりがあるんだから。
「決まったの?」
 メニュー表から顔を上げた瞬間、カナコさんが声を掛けてきた。
「ええ。カナコさんの認めたお店なんですよね? だったら選択肢はひとつしかありませんから」
 僕のその答えに、カナコさんは今日はじめて満足気ににっこりと微笑んだ。そういえばそろそろ芍薬の季節だな、なんて僕は思った。
「すみません、注文いいですか」
 カナコさんがウェイトレスに合図を送り、僕らは同時に息を吸った。
『ガレット・コンプレットください!』
 完璧なユニゾンが決まったが、ウェイトレスはにこりともせずにこう言った。
「飲み物は?」
「あ、二人ともカフェオーレのグラッセで。食後にクレープもいただくと思いますのでよろしく」
 あれ、シードルじゃなくていいのか、と目を見開いた僕にカナコさんは肩をすくめてこう言った。
「帰ったらもう少し仕事残ってんのよね……」
 だったらやっぱりさっき徒歩じゃなくタクシー移動したらよかったんじゃないのか?
 そんなことを思わないでもなかったが、うまいメシを食うにはコンディションだって大事だ。何より、わざわざこの距離を歩いてようやく食えるというだけで価値が上がる気がする。
 まあでも本当にうまい飯を食うコンディションと考えたら、このひとの愚痴を聞きながら食うのは決して好手ではないと思うが。
「でも君が常識のある男でよかったわ」
 あんたの言う常識がまず非常識だからなあ……という言葉を飲み込むかわりに、僕は今届いたばかりのアイスカフェオレを一口飲み込んだ。カフェオレという名がついていはいるが、グラスの上部にふわふわに泡立てられたフォームミルクがたっぷりと浮かんでいる。一見カプチーノのようだがベースのコーヒーがエスプレッソではなさそうなので、やはりカフェオレに間違いはないだろう。はっきり言ってメチャクチャうまい。
「それってお見合いのセンスなし男と比べてます?」
「だって衝撃だったのよ? 窯焼きのナポリピザだって言ってんのに、マリナーラもマルゲリータも頼まないとか言い出すんだから! 挙げ句がなんと、フェトチーネってなんでしょうね、だって。だったらなんであんたこの店選んだわけ、ってワイン片手に二時間問い詰めたわよ」
 言いがかりじゃねえか!
 僕は微笑み返しの技を繰り出しながら、心の中で相手の男性のために十字を切った。見合いでせっかくオシャレな店をチョイスしたのに二時間ピザ蘊蓄聞かされて説教させるとか、難儀にもほどがあんだろ。たぶんきっと、普段はチェーンの牛丼なんかを食ってるタイプの男性が、無理して雑誌だかネットだか同僚に教えてもらった店に予約を入れたとかそんな話なんだ、かわいそうに。
 でも大丈夫ですよ、ピザ男さん。そんな理不尽なダメ出ししてくる女、このひとくらいなもんですから。おそらく彼は次の女性の素直さまともさかわいらしさに感銘を受けて、さくっと成婚できることだろう。もしもまだお見合いを続けるだけの精神力が残っていれば。
「日本の男ってほんとダメ。ピザもろくすっぽ食べたことない田舎もんなんて絶対一緒に生活できないし!」
「そんなこと言うならアメリカ人でも捕まえたらいいでしょう。毎日ピザ食べられますよ、よく知らんけど」
「あっはっは! やだもう面白いこと言っちゃってえ。君が冗談言うの、はじめて聞いたわ、あはははは」
 いかにも機嫌良さそうに、あるいは酔っているようにも見える大げさな仕草で口を開けているが、カナコさんの目は決して笑ってはいなかった。
「ガレットお持ちしました」
 絶妙なタイミングで届いたガレットの大皿を見た瞬間、僕はごくりと生唾を飲み込んだ。今まで出会ってきたガレットとは見た目がもう全然、違っていた。
「ふふん、どうよ、これ」
 すでにナイフとフォークを装備して、カナコさんは真ん中にぷるぷると鎮座している卵を潰そうとしていた。
「……すごい。すごいとしか言いようがないですね正直」
「賭けてもいいわ。一口食べたら最後まで止められないわよ。覚悟はよろしくて?」
 艶然と微笑んだカナコさんの顔は、獲物を前に舌なめずりしている狼みたいに見えた。きっと僕の方も涎をだらだらにした野良犬並にはしたない顔をしているだろうと、一応自覚だけはしておく。
 美女のドレスを剥ぎ取るようにナイフとフォークで真ん中に向けて奇麗に折られたガレットをこじ開けて、たっぷりの湯気からチーズのにおいを思い切り吸い込んだ。そして中心に配置された半熟卵を思い切って割り裂いて、ハムとチーズとガレット生地を口の中に頬張った。
 コンプレット! まさにコンプレットだ。
 コンプレットはフランス語で完璧という意味で、ハムとチーズと卵のガレットはピザで言ったらマルゲリータ。定番中の定番、シンプルにして極限。
 口の中にとろけだしたチーズと卵の黄身が絡み合い、ガレットから立ち上るそば粉の香りが鼻を突き抜けた。
 行儀? 作法? そんなもん知ったことか。
 カナコさんのナイフがパリパリに焼かれたガレットのヘリに触れ、僕のフォークは音を立てずにチーズでしんなりしたガレットとハムを同時に刺し貫いた。
 僕は柔らかいハムを生地と一緒に咀嚼しながら、カナコさんを睨みつけた。
(畜生、こんなうまいもん内緒にしていやがって。ずるい!)
 カナコさんが瞳孔の開いた瞳をこっちに向けて、口を閉じたままにやにやしている。
(あんたの言ってた店より何倍もうまいでしょう、坊や)
 大学一年の時にサークル代表だったこの女に、あれから十年も経ったのに僕はまだ追いつけないでいる。
 だけど今はそんな悔しさよりも、一枚のガレットのその美しさに、全部の感情が持って行かれてる。
 本当にうまいものは、素材と技と空腹が作る芸術だ。芸術である以上、うまさは最終的に美しさにたどり着く。花が飾られているわけでも、飴細工が載せられているわけでもない丸い生地を四角く四カ所折っただけのこのガレットに、僕は美しさを見いだしてしまった。
「香辛料はピンクペッパーなんですね」
 ガリリと噛んだ丸い胡椒の刺激が脊髄まで走り抜けてゆく。
 なんてものを……なんてものを作ってしまったんだ、この店の親父は!
 カナコさんが入り口を引きながら言った言葉を思い出す。
「コンプレットと名乗るだけはあるでしょう?」
 自分が焼いたわけでもないくせに実に偉そうにそう言って、最後の生地一口分で皿に零れた卵の黄身を拭いながらカナコさんはフォークを口紅の落ちた口の中に突っ込んだ。
 カナコさんは美人だけど、飯を食ってる時に他人からどう見えるかなんて気にしない。うまいものを頬張っている時は、特に。
「ちなみにフランス語には名詞にも性があるのは知ってるわね? ガレットは響きの通りに女性名詞だから、形容詞もコンプレ、ではなくコンプレットが文法的に正しいってわけ」
「なるほど? そうするとこのガレットはものすごい美女なわけだ」
 楽しげにくつくつと笑いながらカナコさんがまだまだ泡の残っているカフェオレのグラスにキスをした。
「ところで、君って一途なほうなの?」
「は?」
 質問の意図が分からないから正解が見つけられなくて、間抜けに聞き返すしかできなかった僕にカナコさんが挑発的な声で囁いた。
「実はクレープも、女性名詞なのよねえ」
「確かにコンプレット女史は完璧でしたが。でも目の前に別のかわいらしい女の子が現れたら男なら誰だってなびいてしまいますよね。別腹ですからね」
 カナコさんは「そうこなくっちゃ」と微笑んで、真っ白い指先を誇示するように店の奥にてのひらを向けた。
 ガレットは見た目よりはるかにカロリーが高い。特に厳選した材料で作られた、はっきりとハムもグリュイエールも主張するような逸品は、一枚で十分腹が膨れる。男の僕でもすでに満腹に近い。
 もう一度持ってきてもらったメニューを眺めながら、僕は悪気なく訊いた。
「どうします? クレープは一枚にして、二人で分けますか?」
「ちょっと、冗談やめてくれるっ? ここからなのよ、神の業は」
「ここから? え、じゃあ今のは?」
「まだ天国の入り口よ。ここのクレープ食べたらもう二度とよその店には行けなくなるわよ」
 脅しでもなさそうなカナコさんのその言葉が、もうほとんど楽園の蛇のせりふみたいに聞こえた。その昔、アダムとイブを堕落させたとかいうその蛇はきっとこんな風に囁いたんだ。食ってみろよこれ、世界でいちばん、うまいから。
 そして僕らは砂糖とバターのクレープという禁断の果実をオーダーしてしまった。僕が最初の人類だったら、もっと早く楽園から追い出されていただろうなと思う。禁断だろうが神の教えに背こうが、うまいものなら食うしかないんだ。

「お待たせしました」
 そう言ってテーブルの上に載せられた丸皿に、僕は一瞬呼吸を忘れた。
 バカじゃないのか、こんなもの、うまいに決まってるだろうが!
 どうやって焼いたんだか分からないくらいしっとりと薄い生地を器用に折り重ねた上に、たっぷりとまだ固形のバターが鎮座している。皿全体にまるで薄化粧のように均一に降りつもる粉糖に、よく見ると粒立ったグラニュー糖がキラキラとところどころにきらめいてみえる。
 店の奥のおっさんが仕上げたとは思えないくらい、繊細で上品、それでいて大胆な一皿。
「いっ、いただきます」
 さっきのが妖艶なドレスの美女だとしたら、今度は三つ指ついて礼をする和服の美女みたいだ。さっき満腹になったばかりの僕の胃袋が猛り狂って唸りを上げる。
 ナイフの先でバターの塊をちょいとつついたら、あつあつの生地の上でとろりと滑ってうす黄色いあぶらが溢れた。
 夢中でそのひとかけらを切り取って、まだ熱いクレープ生地で手早く包む。バターが溶けきる前に僕は慌ててそれを口の中に押し込んだ。
 淡い砂糖の甘さに、つうと垂れたバターのにおいが僕の脳髄を駆け上る。
「あ……あ……」
 ぎゅっとバターを吸った生地を噛みしめて、僕は目を閉じて強くナイフとフォークを握りしめた。全身が震えるほどのうまさに、脳天が歓喜の声を上げる。一瞬で腕に鳥肌が立つのが、見なくても分かった。
「泣くんじゃない! 泣いたら、味が変わるわよ」
 カナコさんの一声でようやく店の中に意識が戻ってきた。
 僕はふうと息をついて、なんだかきらきらと滲んだ視界の中でカナコさんを見つめ返した。
「なんか僕、一瞬昇天していました」
「あたしも最初は三途の川が見えたわ……」
 真面目な顔で頷いて、カナコさんがフォークの上のクレープを大口を開けて迎え入れた。僕もはっと気づいてナイフをバターの上で踊らせる。上質なバターが、熱にとろけてしまう前にもう一口いかなくては。口の中でまだ溶けきらないバターの温度とトラ模様に焦げ目のついたクレープの熱のその温度差が、たまらなく心地いいから。
「バターは有塩なんですね」
「この塩気と、砂糖の甘さのコントラストが突き抜けて完璧なのよね」
 言いながら、カナコさんの皿のクレープはもう半分なくなっている。
 しかしこの絶妙なバランス、一体何をどうしたらこうなるというのか。
 洋菓子なんてもう、大半がバターと砂糖と卵と小麦粉の塊なのに、それだけを使いこなしてこんなものが作れるなら、ケーキなんて何種類もある意味がなくなるじゃないか。
 口内でどろりと溶けたバターが舌先に絡みついて、僕の脳にじゅくじゅくと侵入していく。砂糖とバターで脳が溺れる。
 僕が人間でいる以上、どうしたってこんなもの、うまいと思ってしまうに決まっている。皿の上で弄ばれているのはバターでも小麦粉でもなく僕自身だ。
 いつもより少しだけ紅潮してうっとりと微笑むカナコさんの後ろに、大きくくり抜かれた壁から厨房が見える。店に入った時にはただのおっさんにしか見えなかった店主に今は、金色の後光が差して見えた。

「で、どうだった、神様のクレープは?」
 店の外に出たところでようやく魔法が解けて、僕はずっしりと重くなった胃袋を撫でながら答えた。
「悪魔の間違いでしょう? おかげさまで今夜は胃薬が必要でしょうよ」
 あんな暴力的にうまいもの出されたら、僕の理性なんて何の役にも立たない。胃もたれすると分かっているのに、近いうちにまたこの店に吸い寄せられる僕の未来が目に見えるようだ。
「なんてもんを教えてくれたんだあんた……」
「あらそんなの簡単な話よ、食べ過ぎた分だけカロリー消費して帰ればいいんじゃない?」
 艶然と微笑んだカナコさんのくちびるに目が釘付けにされて、僕はぽかんと口を開けて立ち尽くす。
「え……それ、どういう……えっ、ちょっと待っ」
 口紅がはげたカナコさんのはだかのくちびるが近づいて、あわてて目を閉じた僕の耳元でカナコさんが低く囁いた。
「だから、歩いて帰ればいいのよ? ここならざっと十キロは歩けるんじゃない?」
 悪魔のクレープでメタメタになった僕の脳がその言葉の意味をようやく理解した時には、カナコさんはすいっと僕から離れて颯爽と歩き出すところだった。
「いやちょっと、さすがにそれは……っていうか十キロって何時間……それにあんた仕事まだ残っ……っていうか、っていうか、はあああ?」
 駒沢通りを迷いない足取りで歩き出したカナコさんが、上機嫌に空を見上げた。
「ほら、なんかいい月も出てるわよ! 結構なお散歩日和じゃない?」
「散歩ってレベルの距離じゃねえだろ、明らかに!」
 そんな風に叫びながらもつい僕はカナコさんを大股で追いかけてしまって、腹ごなしついでにこの人と並んで歩く時間の分だけ、長く一緒にいられるのかなあなんてイカれたことを考えたりする。
 今夜あの店には確かに神様がいたんだ。
 電話一本で僕においしいクレープを授け、引き替えに胃もたれと明日の筋肉痛をもたらした、迷惑極まりない僕のわがままな女神様が。


(了)

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