オフィス街の中心でビリヤニと叫んだ男

 日本人は、米が好き。
 そんなことを言うだけで決めつけるなとかレイシスト呼ばわりされる昨今、僕は憂いながら思い直す。
 僕は、米が好きだ!
 別に小麦アレルギーだという記憶はない。実家が米どころというのもあるのかもしれないが、とにかく僕は米が好きだ。そういうわけで、もうさっきから米が食いたくて食いたくて、正直先方の話は半分くらいしか耳に入っていなかった。
 ああチャーハンが食べたい。パラパラでふんわりして、胡椒のきいたさっぱりシャープな油をまとった、ホロホロで一粒ひとつぶ輝くようなチャーハンを醤油のスープに合わせて胃におさめたい!
 そう思いながら街をさまよう。
 この街は担当の取引先があるから何度か来たことがあるけれど、お世辞にも飲食店に恵まれているとは言い難いエリアで、僕の好むような個人経営の店なんかは徐々に姿を消して、チェーン展開の店ばかりが幅を利かせる……食通にとっちゃ地獄のような場所だった。
 この中から満足いく中華屋を見つけることができるのだろうか。
 商談よりもっと切実な任務が、そこにあった。
 そんな決死の覚悟を知ってか知らずか、駅前広場の向かいにふと僕の鼻と目を奪う一軒の店。
 柔らかくもエキゾチックなその匂い、オレンジ色の看板、そして……橙白緑のトリコロール……。
 カレー屋だ。
 ぐぅと僕の腹が応える。いや待てよ僕の腹? お前が求めているのはカレーではなくチャーハンなのであって、決してこのふわふわかつパリッとしたバターとろけるナンではなくてパラパラしっとりとした米粒……
 きゅううううん。腹が唸る。
 白旗を上げて自動ドアから颯爽と入店した。もうこの際カレーでいいや!
 僕は、カレーだって大好きだ!

 狭い店内には机も椅子もぎゅう詰めで、入店率はまだ五割いくかどうか、という感じではあったが大きな窓から太陽光の入る清潔な店内は好印象だ。今日のカレーがしめじとチキンであることを確認して、それを……
 机の上に置かれた写真に目を留める。
 ビリヤニ……だと?
 まさかランチタイムにビリヤニを出す店がこんなところにあろうとは思ってもみなかったので、驚いた。
 ビリヤニがメニューにあるということはあのインドの国旗は飾りではなく、たぶん本当にインド系のカレー屋だ。日本で営業している「インドカレー」はインド以外にネパールやパキスタン系も多くて、少しずつ作り方や味も違うのだが、少なくとも写真のそれはどこからどう見てもインドのビリヤニそのもの、に見えた。
「あっ、すみません、ビリヤニください」
「ビリヤニ……辛さ?」
「じゃあちょっと辛めでお願いします」
「ちょとカライ……」
 首が短く浅黒い店員が軽くうなずきながら厨房へ向かう。インド人っぽい。南アジア・中東系の人種に詳しいというわけでは全くないのだが、なんだか非常に頼もしい感じがしてきた。
 まだ若干、ナンおかわり三枚までOKと書かれたボードに心を残しつつ、来るべきビリヤニに備えて水を一口。
 ビリヤニという料理を初めて食べたのも学生時代だった。東京グルメ研究会というサークルに入った僕はそこで未知との遭遇を果たすことになる。
 ひとりの女性と、あまたの聞いたこともない料理と巡り合ったわけだ。
 その女性、名前をカナコさんというのだが、彼女とはまだ一応関係は切れてはいない。こうして社会人になっても時折一緒にグルメを研究する師弟として、っていうか最近はもうほとんど愚痴聞き係みたいなことになってしまっているんだが、まあ構わない。
 僕とカナコさんは飯の趣味が奇跡的に一致している。この相性のよさに気づけば、きっと彼女もいつか僕を彼氏に昇格……させてくれるのかなあ?
 どちらかというと、僕が料理の腕を磨いて餌付けした方が早いような気も最近ではしている。
 などと余計なことを考えていたら、さっきの丸い目玉の店員が太い指でサラダとフォーク入れを持ってきてくれた。ランチにはサービスでサラダがついているらしい。
 彼が持ってくるとおちょこみたいに見えるサラダ皿はガラス製でひんやりしていた。たぶん冷蔵庫に入ってすぐ出せるようにしてあるんだろう。
 深く考えずに生野菜を口に運ぶ。
 この味。インドカレーの店のサラダにかかっているドレッシングは、ほぼほぼどこもこの味で、薄いオレンジ色のどろっとした甘い味付けが特徴だ。見た目はオーロラソースに近いのでその系統だと思われるが、これが業務用なのか飲食店専売のものなのか、なぜか市販品で似たようなものが見つからない。
 このもったりしてちょっと甘いのが、あとから出て来るカレーとベストマッチで、僕は好きだ。
 サラダを食べ終わってしまってぼんやりと厨房を見つめる。オープンキッチンになっているのもあってか、とても奇麗な厨房だ。ラーメン屋はこ汚い方がうまい、なんて昔はよく言ったものだが、最近では女性客を意識してどの料理屋も見せられる厨房を意識しているように思う。
 ぐぐう、と僕の腹が鳴く。
 ビリヤニだからカレーより出てくるのが早いかと思ったが、そうでもないようだ。俄然期待が高まってしまう。
 ビリヤニというのはもとは宮廷料理と言われていて、簡単に言うとインドのピラフみたいなものなんだが、カレー屋で頼むとだいたい作り置いたものを一人前よそって出してくることが多いので、とにかく提供が早い。軽く温め直したり鉄板に乗せて出す店にも入ったことがあるが、どこも似たような感じだ。特にランチタイムは店も客も時間勝負なので、それでいいと思っていたが……これは確実にひと手間加えていると思う。さすがに今から米を炊いて、というわけではないと思うが、否が応でも高まってしまうな。
 首を伸ばして厨房を見ていたら、さっきの店員がやってきて水を注いでくれた。
 あっ、すみません、催促したわけでは……。僕は軽く頭を下げて、お冷の氷をカランと鳴らした。

「はい、ビリヤニ……」
 そっと置かれた四角い皿を見て、喉がひゅっとすぼんだ。期待値よりはるかに美しい桃源の食べ物が薄い湯気をまとわせてそこに在った。
 左脇には小ぶりの碗に脂の浮いた濃厚スープ。見た目は、ほぼカレーに見える。そして小皿にアチャールまで。アチャールは一言で言うとインドの漬物だ。色はカレー色だけど味はさほど主張してこないのが普通。
 僕は「いただきます」と囁いてスプーンを閃かせる。
 楕円の白銀を差し込んだビリヤニはもはや、官能的なほどたおやかに皿の上ではらりと崩折れた。僕は背徳すら感じながらスプーンを口に運ぶ。
 ああ……!
 僕は今、生きているッ。
 脳に到達するスパイスの香り、柔らかくもポロポロしたインディカ米が舌先で踊る。止まらん。たまらん。これはうまぁい!
 ああそうそう、僕ばかり楽しんでいてはご存じない方には伝わらないと思いますので少し解説しますが、ビリヤニというのは長米種の米(香り米の場合も)をスパイス漬けにした肉や野菜と一緒に蒸し上げ、スパイスやハーブで味付けしたもの、とされる。
 ただ、日本で提供されるものはそれだけではなくて、それこそチャーハンみたいに軽く炒めたものもある。
 そういうものを「偽物だ!」という食通もいるけど、僕はそうは思わない。インドと日本では手に入る食材も違えば仕入れ値だって違うし、高級レストランと大衆食堂では掛けられるコストも時間も変わってくる。その中で、できる範囲で最高にうまいものを客に出したい、という気持ちを持っている店の料理なら、それが王宮や一流レストランで採用される調理法でなくても、僕はうまいと思うし食べたいと思う。
 本当のグルメって、そういうものだよ。
 少なくとも僕やカナコさんはそう思っている。
 さっきから僕の脳を刺激し続けているこのスパイスの効いたビリヤニが、どういう作られ方をしているものなのかについて言及するつもりは僕にはない。長米の形が多少崩れていたり、脂が浮いて蒸したというよりは炒めたようにも見えるけれど、でも、とてもうまい。
 カレーもそうだと思うけれど、インド及び周辺地域の料理は味つけに特徴がある。スパイスを重ね合うことで、多層的な味を構築して、なに味と言えない混然とした絶妙な深みを作り上げている。僕は昔からカレー味というのに疑問を抱いている。カレー味って何の味なんだろう。他の言葉で言ったらそれはラーメン味とか魚味とか、そういうことになりはしないか。
 今日のこのビリヤニはなに味だろう。クミン、カルダモン、ターメリック。まさかサフランは入っていないだろうな、この値段では?
 ニンニクの効きすぎないちょうどいいバランスの香りと複雑な辛味が一体となって口の中でぱっと広がるのが、楽しい。さらさらと皿の中で崩れていく米はまるで処女雪のように美しいし、上に載ったミニトマトが飾り切りされているのも、半分に切った真っ白なゆで卵と赤く色づく米粒のコントラストが鮮やかなのも宮廷料理の雰囲気をちゃんと醸している。なぜかナナメに切られたネギが飾られているのは……日本への親しみのあらわれ、ということにしておこう!
 そしてこの鶏肉。柔らかくしっかりと味の染みた肉がまたジューシーで、たまらない。これは間違いなくもも肉だと思うね。しっとりして脂がまわる。
 添えられたアチャールの食感を楽しみつつ、なめらかなスープを舌先で転がす。
 ビリヤニの脂はたぶんギー(インドで使われるバターのようなもの)か何かが使われていて、少しさっぱりしているのに比べて、このスープは重層的な脂のパンチ力を感じる。極めてカレーに近いが、辛さよりも脂を追求した素朴な味だ。まろやかで重たく、けっして突き刺さって来ないのが上品だと感じる。具材に豆のようなものも沈んでいたから、ダルカリー(豆のカレー)の亜種とも思える。
 こういった大衆的な味を「本格的でない」などと言って切り捨てる食通の皆さんが、かわいそうでならない。
 食堂にも料理の鉄人はいるんだぞ。リスペクトを込めて送った視線の先で、のん気そうな鉄人がビタン、ビターンと音を立ててナンをこねていた。楽しそうだ。
 最後の一粒まですくい上げて白い皿を空っぽにして、僕は清々しい気持ちで席を立つ。
 クールに微笑みながら会計を済ませ、でも僕の気持ちは収まらない。
 美味いものを食ったときは、どうしても誰かと気持ちを共有したくなるんだ。美味くないものを食わされたときにはその三倍くらい、語りたくなる。
「ありがとございまーす」
 わりと流暢な日本語で送られて僕は自動ドアを開ける。そして両手を広げて青い空を見上げた。
「ビリヤニ、最高ーっ!」
 ショーシャンクの空に、ばりに叫んだら、地面を熱心につついていた鳩が音を立てて飛び去った。歩いていたおじいちゃんがぎょっとして振り返り、ベンチの子どもが「ままー!」と言って僕を指さす。ほとんどの企業戦士たちは見て見ぬ振りで足を早めた。
 背後でインド人が首をすくめて笑っていた。
 いいじゃないか、僕は今この感動を世に伝え……ふとポケットに振動を感じて、それを取り出す。
 課長からコールが入っている。
 うわあ……一気にショーシャンク気分が洗い流されて、僕はそこに立っていた広場の時計に目をやる。
「ええええええ、うっそだろ、もうこんな時間ーっ?」
 走り出した僕の絶叫に、春めいてきた風が軽やかに笑っている気がした。
 今度は時間に余裕のある時に、カナコさんをここに連れて来よう。
 きっとあのひとは、こんなところでビリヤニが食えることにまず、目を見開くのに違いない。
 手のひらでは課長が諦めてコールを切った。
 やっぱりビリヤニは最高だ、満足してる。あとはそうだな……社に戻るまでに、ちょうどいい言い訳を思いつくことだけを祈っています。


(了)

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