早天【そうてん】

 白くも燃える花でした。
 つんざくほどの静寂が耳に痛い夜のうちに、ふくらみかけた乳白の匂いが鼻を刺して僕は、ふらふらと酔わされるまま木立の中へゆきました。
 黒く立ち並ぶ歪んだ木々の群れの下、その影にひっそりとでも目映く光る花がひとつ、凛と立っていたのです。
 上向いた白いつぼみは僕の見ている目の前で、たっぷり膨れて重みを増しておずおず垂れ下がりました。花の首が折れてしまうんじゃないかと息を詰めていると、たわんだ茎が揺すられてぱっくり白い花先が割れました。
 むっと引き摺る湿潤の匂い。僕はぼんやりとなってしまって、そこから伸びて出た白いかいなに目を向けていました。蜉蝣(かげろう)がさかさまに生まれ出ずるように時間をかけて這い出す白い裸身。
 裸の女の子が背中からぬらりと出でて、細く頼りない脚を折り曲げ音もなく地面につけて、それからふるふる首を振り、最後に顔を花から引き抜きました。
 白い肢体はどこもかしこも、まっさらで、じゅんと煮含む蜜の匂いがしたように思います。鼻をひくつかせた僕に気がついて、少女はことさらゆるりと、振り返りました。
 それで分かったわけです。
 彼女は花の妖精でした。
 彼女は一言も口をきかずに、青ざめた顔で僕を見ました。急に僕は自分の顔かたちを思い出してしまって、輝くような容(かんばせ)から目を逸らし、二つのゆるい突起に気がつきました。
「いけません」
 考えるより先に口が動いていました。怯えた目をする彼女の肩に今脱いだ上着を羽織らせて、うす桃の丸い染みを隠してやりました。目の毒だと思ったのです。こんな身体を晒していては、いけない。僕の上着で細い腿の半ばまでは覆われても、それでもまだすっと通った脚が、ひかえめなそのふくらはぎが、あやしく僕の目を誘いました。
 昼ひなか壁にくるくる踊る影絵の反転。漆黒揺蕩(たゆた)う、ほの白いそれは光絵とでも言いたくなるような姿でした。
「ここは危ない」
 彼女を抱き上げて、家へ連れて帰りました。そうするより他、なかったのです。彼女はまだ生まれたてで、靴一足持たず、その柔らかい足の裏が破れてしまうことを僕はひどい罪悪と感じたのです。
 僕の腕の中で彼女はようやく少し力を抜きました。しっとりした重みが胸に心地よかった。
 いいえ、とても手なんか出せません。妖精ですよ。あなたは妖精に欲情するというのですか。なんてひどい。
 そんな風に言うのは、やめてください。
 ただただ神々しいんです。彼女にお仕えしたいと本能的に思いました。一晩中、跪いて愛しいつま先に口づけていたいと。薄い眉をひそめた彼女を床の上から見上げて僕は、どうかここにいてくださいと懇願しました。ひとからは土下座に見えたでしょうか。誰も見ていないのですから、構うことはありませんでした。
 大の男が、年端もゆかぬ少女の足元に身を投げ出して拝み伏す姿は、さぞや無様なものでしょう。
 彼女に和毛(にこげ)が生えていないことを見てしまった僕は、はっとなって、部屋にある服を次から次から並べました。
「こんなものしかないけれど」
 着古した青い縦縞のシャツに袖を通して、彼女ははじめて僕に微笑みかけました。発泡酒の陶酔がちくちくと胸を駆けて、僕は細いベルトを一本華奢な腰に巻いてやりました。
「朝になったら服を買ってあげます」
 と言いましたが、彼女はわずかあいまい目を細めるだけで何も答えませんでした。
 僕にはすっかり分かってしまいました。
 このひとは朝になったら消えてしまうのだということが。
 夜露の命です。言葉にせずとも分かります。それほど彼女は儚くあやういのです。
 青いシャツから伸びた腕も脚も、銀色ひらめく小魚の趣です。部屋に隙間もなくとろみのついた密やかな匂いが充ちみちています。
 僕はもう寝てなんていられずに、出掛けてゆきました。
 今宵ひと夜の夢ならば。
 どうかせめて思い出草を。
 あたたかい質量を抱いて僕は町を歩きました。彼女は黙って抱かれていました。大人しく、まるで猫だか犬の子のように。
 人生でこんなにも素敵な夜はありませんでした。
 言葉などなくても、僕は彼女を感じられて、そのことをまた奇跡のように思ったのです。
 夜はとっくりとまどろんで、艶めくように流れます。
 無情な朝が来るまでは。
 ちょうど僕らは橋の上にいました。水をたたえた河の水面(みなも)がきらめきはじめ、鋭く無残な光明が夜空を下から突き上げています。
 空の色は一変しました。ももいろの光が闇を跳ね返します。雲はたちまち灰色の影になり、金色(こんじき)に透かされて、山の端から野蛮な丸い天体が顔を出し始めるのです。
 黙示録かと思いました。太陽が苛烈なほどにさんざめく。
 明るすぎる。これでは透き通った白い肌が焼けてしまう。かき消されてしまう。
 そのときです。
 彼女の右手にギラリと光る刃(やいば)が見えました。
 遠い伝説を思い出しました。
 泡になって消えてしまう女の子の命は、王子の命であがなえる。
 僕はすべてを受け入れました。
 こんな命でいいのなら、彼女に差し上げたいと思いました。魂に価値の違いはあるのでしょうか。僕の命は彼女と同じ重さでしょうか。
 両手を大きく広げて叫びました。
「いいですよ、僕を殺してください! だけどその代償に、最期に君の匂いを嗅がせてください……!」
 強く彼女を抱きしめて、胸一杯にその匂いを吸い込んだのです。うっとりやわい匂いでした。なめらかな甘みがみるみるうちに濃くなって、僕は目を閉じて腕の中の彼女に寄りかかりました。
 どろりと広がるのは血の感触で。チョコレートのような悪魔じみた匂いに僕はかすかに笑いました。僕の血はこんな匂いをしていたのかと。
 間違えていました。
 僕の血ではなかったのです。
 目を開いたときに気づきました。
 刃はなぜか、彼女の腹に深く刺さっていたのです。
 あのおとぎ話と同じじゃないか。
 ぐったりした身体が強ばってきて、僕は彼女の真っ白な唇を吸いました。
 甘い甘い唇。
 本当に清らかな者は、血のにおいまでも、かくもかぐわしいものなのだ。
 僕が覚えているのは、そこまでです。
 ええ、そうです。全部ほんとの話です。
 大事なことは覚えていられますが、そうでないことはみんなみんな、忘れてしまったのです。

 今年七月にS県で小学四年生の女児が誘拐・殺害された事件の初公判が今日、S地方裁判所で開かれました。弁護側は心神喪失を主張しており、今後は刑事責任能力の有無が争点(そうてん)になるとして、審理の行方に大きな注目が集まっています。次のニュースです。大型で強い台……

(了)

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