真夏のフレンチ

 みちばたの紫陽花が見るも無惨にしおれていた。まだ七月に入ったばかりだというのにあろう事か、午前中から気温は三十度を超えていて僕は顎からしたたる汗を拭くことすらせず憎き太陽を睨んだ。
 暑い。いくらなんでも、こりゃひどい。
「きみねえ、仕事熱心っていうのはさ、有給取らずに毎日残業することじゃないから、ね? 効率ってわかる、ねえ、効率。いやいや時間かけるなとか雑にやっていいっていうんじゃないのよ。うーん、ほらさあ、有給消化率がね、きみすごく低いの、うん、わかるよね?」
 うねうねと今時女の人だってそんなにねちっこい話し方しないんじゃないかというくらいに嫌らしく、ハゲ田係長が僕を責めたてたのが先週半ば。
 要するにみんな全然有給を取得しないのでこのままじゃハゲ田の成績が下がるとかなんとかで、営業二課の中でとりあえずもっとも有給がダブついてた僕がやり玉にあがったわけだ。有給を取れともう半ば脅されたもんだから、じゃあ譲歩して午前半休で、いやこれ以上は譲れない、だってどうせ有給取ったってあんたたち僕の携帯容赦なく鳴らすじゃないかしかもすぐ出ないとあとからねちねち言われるじゃないか、そんなの休んでる気になれないだろうが、というようなやりとりを経て、僕は今日午前半休を取った。
 満員電車に乗らずに済んだと喜んだのも束の間、いつもの通勤時間は実は太陽が肩慣らし状態だったんだと思い知った。早めの昼ご飯を狙って出勤しようとしたら、太陽さんはもう元気全開、全力投球していただけているようで。
「あつい……ああ……あつい……」
 ネクタイはさすがに鞄に入れているんだけど、着込んだシャツはぐしゃぐしゃに汗で濡れそぼっている。女の人だったらちょっと目のやり場に困るようなシチュエーションかもしれないが、残念ながら僕の場合スーパーのワゴンに突っ込まれていた世にもダサいタンクトップが浮かび上がってくるだけである。
 いつも使っている駅からふたつ離れた割と高級な住宅街のある駅の商店街の奥のほう。だんだん店がまばらになっていく。おかしいなこの辺のはずなんだけど、ええと店の名前は確か……きょろきょろと看板を探す僕の目に最初に入ってきたのはやけに達筆な手書きの筆記体が並んだ白い紙。これってフランス語なのかなあ、ってことはここでいいのかなあ。暑さに朦朧とした僕がぼんやりと眺めていたら、からからと控えめな音を立ててガラス戸を開け、白髪交じりのワンレンを奇麗にセンター分けしたご婦人がにこにこと微笑みながら話しかけてきた。
「いらっしゃい。ランチ、やってますよ」
 どうやらここで間違いないようだ。客席のテーブルに座っていたコック姿のご主人が、僕を見てなんだかいそいそとキッチンへと移動を始めた。
 サヴァランという名のフランス料理店。
 筆記体のメニューとご主人の出で立ちを見て、僕の胃袋は嬉しそうに身を引き絞って悲鳴を上げた。

 前から存在は知っていたが、普段の行動範囲の圏外だったせいで初めて入ったその店で、僕はその達筆のメニューを一瞥しておまかせで頼んだ。初来店の店では僕はほとんどの場合、自分でメニューを選ばない。別に僕が優柔不断なせいじゃなくて、はじめての店では一番自信のあるメニューを食べさせてもらいたいからだ。おいしくなかったら二度と来ないかもしれないわけだから、だったら一番うまいものを出して貰わないと困る。こういう考え方も僕は大学時代の先輩のカナコさんから習った。
 カナコさんっていうのはとんでもないグルメ気取りで、とにかくまあメシに関して小うるさい女だ。常人が理解できないレベルでメシにこだわりを持っていて、しかも譲るということを知らないもんだから、たびたび人間関係で軋轢を生んでいる。主に結婚という人間関係においてだ。
 カナコさんは僕より年上のくせに、しかも婚活とかいう見合いの組み手みたいなやつをもう二年以上も続けているくせに、全く結婚する気配がない。理由はいろいろあるんだろうけど、ちょいちょい僕に愚痴ってくる内容を聞いていると、当然の結果だろうなと思う。
 なにしろカナコさんはメシの趣味がほんのちょっとでも合わなかったり、見合い相手がメシの蘊蓄なんかを披露してきたりすると情けも容赦もなく徹底的に叩きつぶしてしまうのだ。このあいだも確か天ぷら屋のカウンターで講釈垂れようとした男に「馬鹿野郎、天ぷらは揚がったそばから食べないとまずくなるのよ、黙って食え、さもなくばあたしに全部寄越しなさい」って言ってやったんだけどね、なんてしれっと言っていた。間違っているとは思わないが、その後その男性はたぶん天ぷらの味なんてひとつも分からなかったんだろうなと思う。自業自得というにはちょっと気の毒かなあと思うわけだが。
「お待たせしました、前菜のお野菜のテリーヌです」
 どうでもいいカナコさんの婚活失敗談など思い返しているうちに、先ほどのご婦人によって一品目がテーブルに届けられた。目にも鮮やかな透き通るトマト色のソースにいやが上にも期待が高まる。
「いただきます」
 平たいスプーンですくい上げたトマトベースのソースに黄金色の油の玉が浮いている。オリーブオイルを使っているらしい。象牙色の薄いテリーヌの中には人参やズッキーニが細かく切って並べられ、ちょっとレトロなタイル模様みたいだ。オクラの星形がほほえましいが、僕はソースをたっぷりかけて舌の上に載せたその一口で、脳天に直撃を受けた。
 ひんやりとした冷たい皿に載せられたテリーヌ。淡泊そうな見た目から思いもよらぬほど、しっかりと味がついていた。これはブイヨンだろうか。暑さにやられた僕の食欲が久しぶりに呼び覚まされる。
 テリーヌはふつうゼリー寄せとは違って脂が主張してくるものだが、夏野菜と合わせた出汁のきいたこの一皿は、通常よりだいぶ脂を控えている。そして脂のうまみが減った分を塩気で補い、さらにトマトの甘みと合わせる。ああなるほど、動物性の脂を引いた分をソースのオリーブオイルで足してあるのか。さっぱりしていて、ああこれはほんとうに。
「おいしい……」
 貸し切り状態の平日のランチタイムで、ご婦人がにこにこと僕のところへパンを持ってきてくれた。
「あら。それはよかったわ」
「いや、ほんとにこれおいしいです」
 日本の夏を理解したフランス料理だ。ああこれ絶対白ワインに合うやつだよなあ。こんなことなら、ハゲ田の言う通り素直に全休にしとけばよかった!
 そんな後悔も束の間、二品目は本日のスープで、あつあつのクリームスープが運ばれてきた。
 へえ、夏なのにクリームスープか、と思ってスプーンを差し込んだ瞬間、予想した感触よりさらさらしていて僕は少し目を開いた。
 今までに飲んだことがないタイプのクリームスープだ。
 どっしりしておらず、さらさらとして味が薄い。さっきのテリーヌの方が塩気が強かったくらいで、塩も胡椒も脂も主張をしてこない。これはたぶん生クリームの代わりに牛乳と、魚がメインのブイヨンが使われている。スープ皿をさらってみても、身はおろかうろこひとつ入っていないのに、白身の魚が脳の中を悠々と泳いでいくようだ。
 ……うまっ。なにこれ、うまっ。
 僕が夢中でスープをすくっていると、ご婦人がにこにこ笑いながらこっちを見ていた。今にも「たんとおあがり」なんて言い出しそうな顔つきだった。
 言われなくてもどんどん食べますとも。夏バテなんてすっかり忘れた僕の胃袋が舌が脳細胞がそれぞれの持ち場も忘れて踊り出しそうだ。特に満腹中枢周辺が。
 白というより絹色の、さらりとしたスープが揺れる。ほんのりと牛乳の甘みが僕の舌先をくすぐって流れ落ちてゆく。
 具材は人参、たまねぎ、エノキダケ。なんなら僕の冷蔵庫にだってあるようなものしか使ってないのに、なぜだか魔法みたいにうまいスープだ。
 料理人はいくところまでいきつくと、魔法使いにジョブチェンジできるんだろうか。
 スープを最後の一滴までパンに染みこませてすくい取ると、いよいよ本日のメインとご対面だ。
 今日のイチオシだというアメリカ産アンガス牛のステーキ。
 僕の握り拳分くらいはありそうな十分なボリュームのステーキに、たっぷりと焦げ茶のソースがかかっている。
 大胆にナイフで切ってみると、まず手に伝わるその感触が楽しい。弾力も柔らかさもほどほどの、赤身がちの肉質。僕はちょうど好みの肉質ににんまりして、大きく口を開けて肉を頬張った。
 アメリカ産の肉が固いなんて言ってたのは、今はむかしのお話だ。確か牛肉の自由化がはじまったのが九十一年で、それからもう間もなく三十年になろうとしているわけで、この三十年、アメリカなりに努力はしたんだろうなと思う。もちろん日本の畜産農家のことや経済全体、ひいては外交だとかの問題を考えたらそう簡単には喜べないけど、僕個人という消費者目線で言ったら、これだけのうまい肉を安価で口に入れられるというのはやっぱり、恩恵だとは思う。和牛のあのとろけるような柔らかい霜降りもおいしいとは思うけれど、この肉の線維を噛み切る感触、しっかりと焼き閉じ込められたいかにも牛という感じの少し野蛮なうまみは、ただ単純に、うまい。
 しかもこの、表面はしっかりと焼かれているのに真ん中にしっかり残った生々しい紅色から血が滴ってソースに混じるこの光景。こんなものはっきり言って、食える芸術でしかないじゃないか。
 そのうえ添え物のじゃがいもが、とろっとろを越えて崩されてなんだかもうふわふわだ。うす黄色いじゃがいもに普通より少し酸味をきかせたグレービーソースを皿の上で混ぜ合わせ、肉の上に載せてみた。
 ああこれうまいな。肉とじゃがいもって相性が抜群だ。特に牛肉とじゃがいもなんてたぶんこれ、運命の相手なんじゃないか。カナコさんがよく行ってるあの婚活パーティーとやらで出会ったらきっとその日のうちに交際に発展するんだろう。
 くだらないことを考えている間にも、僕のナイフは止まらない。切って刺してほおばって。ソースの中にところどころちりばめられた胡椒のかけらが口の中でガリッとはじけて、鮮烈な刺激がほとばしる。
 ソースじゃがいもそれから牛肉。どれもそれぞれうまいのに、一口でほおばると食感まで混ざり合ってまるで万華鏡だ。
 めくるめく恍惚に身を任せていたら、厨房から僕の様子が見えたのかご主人がなんだかにやにや笑っているような気がした。それを見てご婦人が皿の上を見ておかわりのパンを切ろうとしたので、僕は慌てて辞退した。もうだいぶ忘れかけているけど、午後から僕は仕事に行かなくちゃならないのだ。いくらうまいとはいえ食い過ぎるとよくない。主に眠気とかまあ、そのへんが。
「それじゃあそろそろ、デザートもお持ちしますね。コーヒーと紅茶どちらがいいかしら?」
「ええと、じゃあ……コーヒーお願いします」
 これはカナコさんの受け売りなんだけれど、実はフランスにはイギリスより先に紅茶が伝来していたのだそうだ。その後コーヒーがオスマントルコから伝わってすっかり国をあげてのコーヒー党になってはいるが、フランス社交界の貴婦人達は好んで紅茶を嗜んだそうで、フランスの紅茶は特に花や果実の香りのついたいわゆるフレーバーティーが多いとのことだ。「ほら、フォションとか。あれってフランスのメーカーでしょう」とカナコさんが挙げたブランドは、紅茶党ではない僕でも知っているくらいに有名だ。
 そういうわけで、フランス料理には紅茶とコーヒー、どちらが合うのかいつも迷うのだけど、さっきの肉の野性味に引き摺られて今日のところはコーヒーにしておこう。
「はいどうぞ。お砂糖とミルク、置いておきますね」
 デザートは生クリームをふわっふわに泡立てたロールケーキだった。これはコーヒーで正解だな、と思いながらほんの一口舌の上で転がすと、泡雪のようにやさしい甘さがふわりととけて、舌先にナッツ系のコクが広がった。
 カナコさんだったら一口でこのナッツの正体を見破るかもしれないが、あいにく僕はそこまでのグルメじゃないので、ああでもないこうでもないと考えながら食べていたらもううっかり半分が皿の上から消滅していた。半分味わったのに、こいつの正体が分からなくてもやもやする。ナッツなことは分かっているんだ。ナッツ……だ、と思う、んだけれど……も。
 仕方ないので降参してクリームの中身を訊いたら、ご主人がノワゼットだと教えてくれて、そのあとすぐにプラリネと言い直してくれた。
 なるほど、プラリネか。
 僕はここにカナコさんがいなくてよかったと思った。カナコさんに何が入っているか当ててみろなんて言われて、うっかり「たぶんピスタチオじゃないですかね」なんて答えていたら危なかった。
 そういうとき、鬼の首でも取ったように勝ち誇るのがカナコさんというひとなのだ。
 だけどこの柔らかいノワゼットのクリームとこの店の味付けは、絶対にカナコさん好みだと思う。ちょっと気さくな雰囲気もいいし、なによりいいのは僕の家から近いことだ。
 土曜日の夜にでもカナコさんを誘い出したら、ひょっとするとひょっとして僕の家に寄ってくれるかもしれない。いや、別にそういう下心があるわけではなくて、いや全然無いとは言わないんだけど、じゃなくて、とにかく、もしカナコさんがこの店を気に入ったら、たぶん何度もここに来ることになると思うんだ。そしてご主人とご婦人には申し訳ないけど、ここは都心からもそんなに近くないしなにより最寄り駅には急行が止まらない。となると、おいしいからと調子に乗ったカナコさんがついつい深酒したら、だってあのひと酒強くないしそりゃ。じゃなかった、とにかく、とにかくだ。
 僕の家の近くにこんな店があると教えたら、カナコさんの僕への評価が上がるに違いないんだ。だってそういう人なんだから、あの食いしん坊は。
 僕は会計を待つ間にご婦人に夜のメニューを見せてもらった。
「鴨肉のコンフィがあるんですね!」
「ええ、それは夜しかやってないんですけど」
 少し申し訳なさそうに伝票を持ってきたご婦人に、僕はにんまりと返す。
「いやいや、それはそれで好都合なんですよ」
 あの女、コンフィとかフォアグラとかぼんじりとか、脂っこくて柔らかいものには目がないんだ。しかもついこの間も「あーどっかおいしいコンフィ出せる店ってないのかしらねえ。最近おいしいコンフィに全然当たらないのよね」なんて憤慨していたくらいで。
「夜だったらお電話で予約してくださいね。もう年なもので、夜すぐ閉めちゃうこともあるんですよ」
 などとご婦人が笑っているはしから、ご主人が厨房でごそごそしながら「じゃあそろそろ一服しようかー」なんて声を掛けている。
 ひとつひとつの料理は少しも奇をてらっていないのにかなりのレベルだと思うのに、とうとうまるまる一時間、僕以外の客が入っていない。そしてご主人もご婦人も全くそれを気にしたそぶりはない。その上夜もすぐ閉めるだなんて、この店、収支は大丈夫だろうか。さっきのメニュー表の価格もこの会計も、相当にリーズナブルなんだが。
「ありがとうございました。また、いらしてね」
 気さくなご婦人に見送られ、駅まで戻る途中で検索してみたら、なんとこの店都内でも有数のフレンチ激戦区で数年前に惜しまれつつも閉店した店の移転先だった。老後を見据えて自宅近くでほとんど趣味として営業している店ということか。まさかそんな名店があるなんて思ってもみなかったが、どうりでうまいはずだ。来た道をてくてくと戻りつつ、満腹するまで食べたのに少しももたれていないことに気がついた。それどころか暑さにぐったりしていたはずが、いつの間にかどこからともなく活力がみなぎっている。
 本当にうまいメシは舌でも脳でもなくて、身体が教えてくれるものだ。
 あのご主人、ただものではないに違いない。
 僕は駅の改札でICカードを通しながら、スマートフォンで時間を確認した。たぶん、この時間ならまだ間に合う。
 すっと指先でアプリを起動させ、案の定ぶすくれた声で応答してきた女に僕は笑いを噛み殺しながら声を掛けた。
「あっ、カナコさん? コンフィ食べたくありませんか。僕さっきすごいいい店、見つけたんですけど」
 目の前に滑り込んできた電車は急行で、生ぬるい風がホームを撫でつけていくけど少しも不快に感じない。
 トマト、ピーマン、とうもろこし。サルサ、ざるそば、ところてん。屋台料理にかき氷、南国料理も捨てがたい。
 今年もまた容赦なくだけど魅力的な夏がやってくる。
 僕の好きなあの人は、どこか夏に似ている気がする。

(了)

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