十年卵が孵るまで

 あれは二〇〇七年の夏だった。
「あのさあ、俺、お前のこと好きかもしんない」
 じわじわと耳に滲みるセミの声を切り裂くように、中島くんがそう言った。白いシャツの裾をベルトの上でひらひらさせて。中島くんの首筋は汗できらきら光っていた。
「気持ちは嬉しいけど」
 と私は言った。十七歳。私たちは夏の真ん中に立っていた。
「そっか」
 中島くんは白い歯を見せて笑ってくれた。そしてちょっと顔を下に向けて「ていうかお前、好きなヤツとかいんの?」とあくまでも素っ気なさを装ってそう訊いた。
「いるよ」
 と私は答えた。中島くんよりずっとずっといい男なの。背が高くて、年上のひと。
「そっか」
 とだけまた言って中島くんは肩をすくめた。じわじわ鳴くセミの声が私たちの微妙な距離の間を埋めていった。

 次は二〇〇八年のことだった。
「なあ、お前いい加減カレシできた?」
 ブリックパックの牛乳を飲みながら中島くんは行儀悪く椅子の背にもたれかかってそう訊いた。
「ううん」
 と私は答えた。
「じゃあそれ脈ねえんじゃん、無駄だよ」
 そう言って笑った中島くんを、私は笑った。
「そんなの、知ってるけど?」
 だってあのひとは、手の届かないひとなんだから。あのひとを思い浮かべていると、胸の中に甘い痛みが広がっていく。じわり、どろり、浸食される。
「なに、そいつ、カノジョいるヤツなの?」
 潔癖そうに眉を顰めて中島くんが私の目をじっと見つめた。中島くんは悪いひとではないけれど、だけどとっても、幼稚に見えた。
「いないと思うけど」
 彼女がいるとかいないじゃなくて、そもそもあのひとは私なんかに釣り合わない。あのひとは私の理想そのもの。たとえばそう、夜空に輝く遠い星なの。
 中島くんはぷっと吹き出して、それから学生服の袖でちょっと口元を押さえた。それがいかにも、男子高校生に見えた。
「もしかしてお前の好きなひとって、芸能人かなんか?」
「まさか。芸能人ならまだ可能性もあるじゃない。だって会えるかもしれないんだから」
「なにお前の好きなひとって死んじゃったの?」
 かかとの潰れた上履きだとか。白いストローの先についてる歯形とか。ちょっと猫背の座り方。
「ううん。そんなに気になるなら、教えてあげる。私の好きなひと」
 須藤さんって言うの。このひと。
 教科書の途中に閉じ込められた平べったい白い紙に印刷された須藤さんを見て、中島くんはちょっとげんなりした顔をした。
「漫画かよ」
「失礼ね、小説よ。須藤さんはね、眉目秀麗で長身の美丈夫なの」
「へえそう。見たの?」
 意地悪い声でそんなことを言う中島くんに、私は微笑みながら答えた。
「だって書いてあるもの。中島くんも読んでみる?」
 遠慮しておきます、と中島くんは言ってひょいっと軽く飛び立つみたいに腰を上げた。
 中島くんはお世辞にも容姿端麗じゃないし、身長だって平均くらいだ。
 私はさよならも言わずに帰っていく中島くんには目もくれずに、須藤さんのちょっとシャープな頬にそっと人差し指を這わせた。

 大学に進学したその年、「夕映えアンチテーゼ」がアニメ化した。
 この年私は動く喋る須藤さんにただただ夢中で、中島くんが何をしていたのかひとつも知らない。

「よう、元気?」
 二回生のときキャンパスの真ん中の交差点で、いきなりそう話しかけられて私はちょっと驚いた。
 中島くんは一年浪人して、今年うちの大学に入ったんだと言って笑った。
「お前まだ夕暮れなんとか読んでんの? ほら須藤なんとかが出てるやつ」
「夕映えアンチテーゼ」
 と私は正した。
「あはは、変わってねーなー、お前。大学入ってもまだ須藤なんとかに夢中なんだ」
 中島くんがなんだかやけに嬉しそうにそう言って、それから私にお前はサークル何やってんの、バイトとかしてないの、外国語は何選択してんの、なんて畳みかけるように訊いてきた。
 細身のジーンズにボーダーのTシャツ、いつの間にかピアスなんか開けた中島くんは、控えめに言って全然かっこよくなんてなかった。

 二〇一二年、就職がなかなか決まらない私に、茶髪を越えてほとんど金髪になった中島くんは「お前もう永久就職しちゃえよ」なんて言って茶化した。
「須藤さんは女性も自立して食い扶持くらいは稼ぐべきだって考えなの」
「へえー、お前二十歳過ぎてもそんなんなのな。逆になんか尊敬してきたわ。すっげーなあ、須藤なんとかのどこがそんなによかったの?」
 いつもみたいにふざけた感じの訊き方じゃなくて、心底感心したように中島くんが言うので私もつい答えてしまう。
「須藤さんは美しいひとなの。顔だけじゃなくて、中身が。傷つきやすくて繊細で、でもそんなこと他人に見せないように凛としているひとなの。無愛想だけどそれがまた孤高って感じで。あんな風に私もなりたいの」
「なれねえよ?」
 そんな風に水を差す中島くんは見た目はだいぶ変わったけれど、あの頃のバカでガキっぽい高校生そのままだった。
「努力すればなれるかもしれない。私は須藤さんのようなひとに並び立てるような、そんな人間になりたいだけなの」
「無理無理そんなのやめときな。だってそれ、絵空事だもん。だから漫画になるんじゃん」
「漫画じゃないったら。小説よ」
 中島くんは小説なんか読まない。
「バッカだなー、お前。そんなのずうっと追いかけてっと、お前の青春それだけで終わっちまうよー?」
 私の青春がどうなろうと、中島くんには関係ないじゃない。
 そして私の人生に、須藤さんより美しいものなんて絶対に存在しない。
 できることなら私も平べったくなって、須藤さんのいる世界に閉じ込められてしまいたかった。

 長く続いた就職活動も結局最後には実を結び、晴れて私は社会人となった。そう多くはないけれどお給料というものを貰った私はアニメと小説をそれはもう好きなだけ買うことができて、休日といえばずっと家でDVDなんか見て過ごした。
 この頃には須藤さんの声を担当した声優にもどっぷりはまり、とろけるような美声に溺れてベッドでのたうち回った。
 そういえば、中島くんの声はいつもどこかざらっとしていて、艶がない。アニメに出てくるどんな端役の声優よりも薄っぺらい声だと思った。

 二〇一四年。
 久しぶりに飲みに行こうよなんて言ってきた中島くんは、似合わないグレーのスーツを着て髪もまたもとの色に戻して、携帯電話に向かって「いつもお世話になっております」とか言ってぺこぺこ頭を下げていた。
「ビールじゃないんだ」
 そう言った私に中島くんはちょっと憮然とした顔をしてみせた。
「まだ伸びるかもしれねえし?」
「え? もしかしてそれでカルーアミルクなの?」
 さすがに呆れた私になぜか溜息をついて中島くんは牛乳色のグラスをあおった。今さらそんなもん飲んだって、中島くんの背はもう伸びない。
「俺まだ諦めてねえから」
 中島くんは二十四歳、身長百六十八センチ。

 最近親があれこれうるさくて、どうにもたまらなくなって一人暮らしを始めたの。そう言ったら中島くんが遊びに来たいと言ってきかない。断る理由をもうこれ以上思いつかなくなって、仕方がないから呼んでやることにした。
「ねえ、絶対ヘンなことしないでよね」
「おいおい俺がいつヘンなことなんかしたよ? 俺、こう見えて紳士なんだぜー」
 上機嫌に笑いながら、私の後について玄関のドアをくぐった中島くんがすぐそこでごくりと生唾を飲んだ音が聞こえた。
「来たがったのは、中島くんなんだからね?」
 振り向いてにやりと笑った私の顔が中島くんにはどんな風に見えたんだろう。
 中島くんは私の部屋の壁に天井に床にまで、びっしり埋め尽くされた須藤さんを見て、それからなんだか乾いた笑いを漏らした。
「これだけカレシにガン見されててヘンなことする気になるヤツがいたら、ド変態だよ」
「須藤さんはカレシなんかじゃないわ」
 座布団をすすめたけど中島くんは居心地悪そうに、背後に貼られた須藤さんのポスターに会釈なんかしていた。
「部屋っていうかなんか祭壇みたいじゃね?」
「もうすぐ須藤さんの誕生日があるからね」
 そう言って私は須藤さんの声を担当した声優さんの歌ってる音楽をかけた。
「それって何度目の誕生日? 須藤某って何歳になんだよ」
「二十七歳。何度目でもずっと、二十七歳よ」
 自分で言った言葉なのに、それがまるで釣り針みたいに胸に引っかかって痛みだす。
 冷静沈着、頭脳明晰、長身痩躯のあのひとに、私たちは年齢だけ追いつこうとしていた。

 二十六歳、風の冷たい冬の日に。
「お前そろそろ結婚とかしなくていいの? 嫁きおくれてもしらねえぞー」
 うちの親と同じようなことを言う中島くんを睨みつけて、私は「いいひとがいればね」と答えた。
「へえ? いいひとって具体的には?」
「須藤さんみたいなひと」
 間髪入れずに答えた私に、ひゃっひゃっひゃ、と中島くんは楽しそうに笑った。
「絶対言うと思った! ええとなんだっけ、眉目秀麗で頭脳明晰で? でもそういえば須藤某って何の仕事してんの?」
「コンサル業……みたいな感じかな」
「たぶんだけどそれ、絶対自営業だろ? 胡散臭えなあ。ちゃんと税金払ってんのかよ」
 須藤さんが納税しているシーンなんて読んだことはない。でも脱税しているという描写もないし、須藤さんは真面目な性格だからきっときっちり確定申告しているはずだ。
「そんな男の、どーこがいいのかねえ? その点俺はサラリーマンだからさ。福利厚生手厚いぜえ。住宅ローンも組み放題」
「福利厚生なんて関係ないわ。私は須藤さんの内面を知っているもの。あのひとの、玻璃のようなこころを見てきたもの」
 静かに響いた私の声に、中島くんはなんにも言わずに柵にもたれてカフェオレを飲んでいた。
「他人のこころって表面しか見えないじゃない。中身がなんにも分からない福袋みたいな人間を、好きになったりできないわ。私は須藤さんが好きなの。表も裏も、みんな知ってて、理解してるの。でも中島くんは、私の中身を何にも知らない」
「いや俺、これ以上ないほど理解してると思うけど?」
 やけにきっぱりとそう言って、中島くんが私の目を真っ正面から見据えた。
 なんだか吸い込まれてしまいそうな瞳から目を逸らそうとしたら、中島くんが低い声で言った。
「逃げんなよ」
 凍りついたまま私は仕方なく、中島くんのなんだかぐちゃぐちゃにいろんなものが溶けたみたいな目を見つめた。
 比喩でもなく文章でもなく言葉ですらないものが、私に直接流れ込んでくるような気がした。
「なあ、分かった? 裏も表もねえんだよ」
 きっぱりと言い切った中島くんのふたつの目玉だけが、寒空の下見たこともないくらいじくじくと燃えていた。
 冬の夜はいつもより星がたくさん輝いてしまう。
 冷たい風にコートの裾を煽られて、私は髪を押さえるついでにやっと中島くんから視線を逸らした。

 二〇一七年。
 中島くんが机の上で息を詰めて、色のついたたまごを立てていた。
 黄色とピンクと白と淡いブルーで幾何学紋様の入った変なたまご。
 黒い学生服を着た中島くんがそのてっぺんを、銀色のスプーンでとんとん、って静かに叩いた。
「なにしてるの?」
 中島くんは顔を上げないままで私に答えた。
「これ、割ろうと思ってさ」
「割っちゃうの? こんなに奇麗なのに」
 もったいないなと私は思った。だけど中島くんはたまごを転がさないようにそうっとそうっとこっちを向いて、しー、なんて言いながら唇に人差し指をあててみせた。
「ほら、よっく聞いてみ? 中から音、してんだよ」
 私も息を殺して顔をたまごに近づける。耳を澄ませると、たしかに小さくたまごがみじろぐ音がした。
「ほんとだ」
「だろ? それにほらここ、もうヒビが入ってんの」
 さっきスプーンで叩いていたあたり、黄色い模様に沿うようにたしかにたまごはヒビが入っていた。
 中島くんはまた静かにたまごのてっぺんにスプーンを当てる。
 とんとんとん。……こそこそ。
 とんとんとん。……こそこそこそ。
 中になにかいるのは間違いなかった。
「生まれようと欲するものはひとつの世界を破壊しなければならない」
 中島くんの声で有名なドイツ文学の台詞が聞こえてきて、私は目を瞬いた。
 ああそうか、これは夢だ。
 中島くんが卵を叩き続ける。優しく、何度も、根気よく。
 とんとんとん。……こそこそこそ。
「ねえそれ割っちゃうの!」
 たまらなくなって私は声を張り上げた。
「うん」
 屈託のない声で中島くんは言った。まるで悪いことなんてひとつもしてないみたいに。
「中になんかいるんだ。こいつ、生まれてきたらまず真っ先に俺の顔、見るんだぜ。もしかしたら俺のこと、親と思ってなつくかもしれない。かわいいだろうなあ」
 やめてあげてよ! 私が上げた悲鳴は音にならなかった。
「どんなに奇麗でも殻は殻だし。それにたぶん、こいつ中身のほうが奇麗だと思うなあ」
 とんとんとん。とんとんとん。とんとんとん。
 中島くんは叩き続ける。
「あっ、ほらもう少しだ。もう少しでこいつは……」
 とんとんとん。とんとんとん。とんとんとんとん。
 中島くんが叩き続ける音が聞こえる。
 もうすこし、あとすこしで。あとすこしでわたしたちは。

 そして今年の夏の日に、中島くんが段ボール箱を運びながら汗を拭った。
「思ったより少なかったな」
「そうね」
 部屋を埋め尽くしていたグッズは全部、奇麗さっぱり捨ててしまった。飾るだけの場所もないしアニメを見ている時間もないし。あとそれから。
「俺のために、捨ててくれたんじゃないのー?」
「バカなの? あなたのためなわけないじゃない」
 そう言って私は鼻で笑った。強いて言うなら自分のため。そしてそれから、大好きだったあのひとのために。
 せめて最後にあのひとに対して誠実でいたかったから、だからみんな捨ててしまった。
 この十年、私はほんとうに須藤さんのことが好きだった。ただの絵空事じゃなくて。奇麗なだけじゃなくて。強くて脆くて愛おしいひとだった。できることなら一度くらい、抱きしめてみたかったとも思うけれど。
「はいはい。どうせ俺は眉目秀麗じゃないですよー」
 そう言いながら後ろからべったり中島くんがくっついてきて、あまりの暑さに抗議の声を上げる。
「離してよね!」
「ばーか、やっと捕まえたんだろ。誰が離してやるもんか」
 耳元でしつこく笑うその声が、全然甘くも素敵でもなくて。頭脳明晰とはほど遠い。長身痩躯は夢で終わった。繊細どころかたぶん、図々しくて遠慮知らず。
「ねえあなた、私の一体何が気に入ったのよ」
 そう訊いた私に中島くんはにっこりと笑ってこう答えた。
「だってお前、クラスでいちばん変な女の子だったから」
 それで十年も追いかけ回すなんて、あなたもたいがいね。
 まだカーテンもついていない部屋の窓を開け放って、私たちはまるで高校生みたいに、誰に憚ることもなく声を上げて、笑った。

 二〇一八年八月一二日。私は中島になった。

(了)

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