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食いしん坊は悟らない

 何か重大な人生の悩みだの失恋のせいでもなくて、何の意図もなく禅寺で修行をしたことがある。
 お寺さんからしたら迷惑以外の何ものでもない気はするが、自分の宗派でもなくたまたまたどり着いたのがその寺で、そこで勧められたというわけでもないのにまったく別の理由から今は毎日「正法眼蔵」を読んでいるあたり、なんらかの「縁」を感じないでもない。
 とにかく当時私はまだ若く、様々の煩悩を後生大事に抱えておる次第で、そんなんで体験とはいえ修行なんて大丈夫なんかいなという気持ちと、あと半分は気に入ったら頼み込んでそのまま出家させてもらいましょう、といういい加減な気持ちで寺の門をくぐったのであった。
 一週間程度の体験修行の内容はほぼ全部「座禅」で、さいしょに携帯と財布を没収されて結跏趺坐のやり方を教えてもらった後は、勤行と食事と説法以外はひたすら坐っていればよいというプログラムであった。
 そういう環境に自らを放り込んだ仏教徒でもない若い奴は、どうなるか。
 ごく稀に音を上げてとっとと下山する奴もいるらしいが、私の場合は違った。
 飯がうまくてうまくて、仕方なくなってしまったのだ。
 まったくもって煩悩の極み、はなはだ遺憾であるが……さすが、開山八百年の歴史で作られる精進料理は、極楽もかくやというほどに、うまかったのである……!
 大きなお寺さんで寄進がすごいのか、そもそも米どころだからなのか、米がまずうまい。このうまい飯が朝は粥に仕立てて出てくるので、たまらない。
 朝四時に起きて、読めもしない経を修行僧の後ろでごにょごにょ読んだふりをして、ワンサイクル座禅をキメた後の胃袋にじゅんじゅんと染みわたる朝粥、そこに千切った餅までとろとろにとろけて浮いているとくりゃ、これがうまくないわけがない。
 基本的に私語は厳禁なのと、知り合いなんか誰もいないソロ参加なもので、うめぇうめぇと言い合ううこともなく、ひたすら舌の上でとろける餅に感激至極である。まるで世界中の餅という餅をわが身ひとつに享受してしまったような、後ろ暗い悦び。しかも周り中禁欲を申し渡された修行僧に囲まれた状況である。
 ああ、朝粥うんめぇ!
 私はすかさずお代わりを要求した。お釈迦様の教えは、腹八分目。だが八分目の具合は当人にしか分からんからと、お代わりは許されているのだ。
 当然だが私は必要で食ってるわけではない。うめえからお代わりしているのだ。
 なんたる煩悩!
 うまいのは、朝粥に留まってはくれなかった。
 昼も夜も出される飯に肉はたしかにひとかけらも出て来ないようだが、これがまた美しいわ美味しいわで、食が進みすぎる。
 本物の精進料理は、懐石料理よりうまいのだ。
 生来、大の苦手のはずの高野豆腐までうまいのには驚いた。実家で「栄養があるのだから」と無理やりに食わされた高野豆腐はまるでスポンジの激落ちくんに麺つゆを含ませたようなひどい代物だったが、あの高野豆腐に罪はなかった! きちんと調理された高野豆腐はしっとり豊かで複雑なうまみを持った、深くもなまめかしい味がするのだ。
 言うまでもないと思うが、私はまたお代わりした。
 基本的にお代わりできるのは米だけなので、ペース配分を熟考しながら食った。
 その中で非常に細いそうめんのようなものがほんの一口配膳されていて、私は何も考えずにひょいパクと口に入れたが、これがまたすごい。汁のないそれはおそらくごま油と出汁か何かで炒め煮られていたらしく、しっかりした味と油の入ったパンチの効いた逸品だったのである!
 え、なにこれ、うめえ!
 私は慌てて米をほおばった。あれからずいぶんあの時の料理を探しているのだが、他で見つかるものでもなくて、正式名称は不明のままだ。ご飯のすすみ方が半端でないので、あれを米の上にぶっかけたら売れると思う!
 朝昼晩と必ず出るのは漬物だが、これはなるべく音を立てずに食えと指導された。
 いや、無理でしょう。音は出ますって、漬物ですから。
 それでもなるべくゆっくりと噛み締めた漬物の、口の中で放出する塩気には至福がほとばしる。
 禅寺ではすべての所作が「禅」なのだ。だから料理係もひとつひとつの手順を「禅」として行う。手を抜くなんて考えられないし、営利目的でもないので昔と同じ作法が継承されている。
 そういうわけで、彼らは普通にしているつもりでも、飯が自然とうまくなってしまうのだ!
 私は煩悩にまみれた舌と腹で、たらふく飯を楽しんだ。
 作るのも禅なら、食うのだって禅である。
 禅ってなんだか、楽しいものですなあ!

 結局、なんの悟りも得ぬままに時間は過ぎて下山の日となってしまった。
 飯はすこぶるうまかったが、私は出家する気は完全に失せて無事、煩悩と悦楽の都市へ帰っていく。
 たった一週間、ろくすっぽ運動せず(なにせ、終日座禅なものですから)炭水化物を食い続けたおかげで、三キロ近く太ってしまったからだった。
 あのまま俗世間を捨てていたら今頃、百貫デブになっていたのかもしれないなあ。
 飯がうまいというのも、なんだか考えものである。


(了)

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