俺の小説を読まないで

「ねえ、覚えてる? 俺のこと」
 まあ忘れたとは言わせねえけどさ。タイミング見計らって回転椅子をきしませた俺に、電気のスイッチに指を載せたままの女の目が、縦に大きく見開いた。
「えっ?」
「俺だよ、俺。まさか忘れたのか? 中島課長……いや、今はもう部長だったかな? 相変わらず覚えのめでてえことで」
 厭味ったらしく呼んでやった昔の役職に、元クソ上司はようやく働きはじめた頭で何かを思いついた。
「いや覚えてるけど。っていうか、お母さんはっ? まさか白石君……」
「バーカ。俺が恨んでるのはお前であって、あの婆さんじゃねえんだよ。ちょっとオネンネして貰ってるだけだ。邪魔はされたくないもんで」
「あ、そう。ならいいんだ……っていうか何、あなた私のこと恨んでんの?」
 かー。恨んでんの、ときましたか。人の人生メタメタにしておいてよくもまあ。
 でもま、そんなもんかもな。キャリアウーマンだかなんだか知らねえけど、他人を蹴散らし蹴落としてのし上がった女だ。自分が苛め抜いて退職に追い込んだ部下の気持ちなんか一度も考えたこともねえんだろう。
 俺はあらためて女の顔を正面から睨んだ。
 走っても乱れないようにキツくひっつめた髪にはそこかしこにみっともなく白髪が浮かび、化粧を直す暇さえ惜しんで口紅は真ん中だけ妙に色あせている。上等な生地のスーツもこの時間にはこころなしかよれてぐったりして見える。
 断言できる。
 恨んでいる奴は俺だけではない。在職時にはよくこの女の悪口で盛り上がったものだ。この女のせいで出世ができないと嘆いた隣の課長や、俺と同じくらい怒られ倒した先輩たちの顔、顔、顔が今も目に浮かぶ。
 業界内でもこの女は蛇蝎のごとく嫌われていたんだ。いくら仕事が出来ても、人としてあれはないと言われているのを、知らぬは本人ばかりというわけ。
「この時を待ってたんだぜえ? 四年間、来る日も来る日も……な」
 ああやっと報われる。すべての努力が実を結び、ついに俺はこの女に天の鉄槌を振り下ろすのだ。
「これがなんだか分かるか」
「USB」
 簡潔に女は答えた。「報告は常に素早く手短に」が口癖だった女らしい受け答えだ。
 俺はUSBを指先で玩びながら目の前のパソコンを起動する。
「ちょっと、勝手に触らないでよ!」
「これはウィルスだ。それも最速で情報漏洩させることを目的に開発されてる」
「はい?」
「お前、仕事の機密ファイル自宅パソコンに入れてるだろ。今からこれを感染させて、アドレス内の全員宛てに送信してやる。ウィルスは受信した奴のパソコンにも感染して、そいつのアドレス内の全員宛てに同じ情報を拡散する。その先でも……あとは、分かるな?」
 さっと青ざめた女は、しかし瞬時にこう言い切った。
「あり得ないわね。だって白石君、表計算もまともに出来なかったじゃない! そんな都合のいいウィルスなんてあなたに創れるわけないでしょう。冗談はやめて、もう帰りなさい。今なら警察に通報しないでおいてあげるから」
「ったく。いつまで上司気取りだ? 確かに俺にはスキルなんか全然ねえけど。協力者がいたら? 俺はファイルを適当に指定して実行キーを押すだけでいいとしたら?」
「協力者……?」
 女は目をすがめて唇を曲げた。俺はそれをいい気分で眺めながら、おっさんに感謝する。
 出会いは、四年前。俺がまだこの女の下で馬車馬のように働かされていた、あの頃……。

「あンの、クソアマ~! ふっ、ふざけるのは顔面だけにしとけよこのへちゃむくれぇ!」
 ガラガラガシャンと音を立てて俺は何かの空き瓶に頭から突っ込んだ。いかん、目が回る。立ち上がりたいのにすぐには立てず、いやもしかしたら俺、もう立ってるのか? 右も左も行方不明で、さっきから吐き気と罵詈雑言だけ喉の奥から湧き上がってくる。脚が空気を蹴り上げる。
「大丈夫ですかあ?」
 空からなんとも間の抜けた声が聞こえ……と思った次の瞬間、至近距離に闇の中からおっさんの顔が浮かび上がった。
「うひい!」
「はっはっはっは。失敬失敬、驚かせてしまいましたね。しかしアナタちと飲み過ぎですよぉ。酒はほどほど、腹八分目とお釈迦さまもおっしゃっています」
「近い近い、顔近ぇから!」
 ずんぐりむっくりした丸顔の小男で、最初の印象が強烈ですごい垂れ目だったものだから、狸みたいだと思ったのを覚えているが、こいつが妙に親切なおっさんだったのだ。
「それは災難ですなあ。最近は男女平等通り越して女性が優遇される世の中。出世も女性の方が早いと聞きますからねえ」
「別に女だからどうのってんじゃ、ないんですが。あの女は特別イヤな女だというだけで。第一、キャリアだかなんだか知らんけど、他人を押しのけてまで成果成果なんて言ってるから、いつまで経っても嫁にも行かない。企業戦士としてはそれでよくても、女性としてはあんなん願い下げですよ!」
 介抱された後、話を聞いてもらえたのが嬉しくてつい饒舌に余計なことまで喋ってしまった。
「しかしすごいストレスですなあ。いっそのこと、復讐しますか?」
「復讐?」
「復讐は古来より人類に許されたストレス解消のいわば権利のようなものです。小さな嫌がらせから社会的抹殺、あるいは文字通りの抹殺も……スカッとしますよぉ、復讐!」
 このおっさん、人のよさそうな顔してなんつう物騒な思想の持主だ。狸顔が急に悪魔に見えてきた。
「いえ何も、ほんとに殺そうなんてたまにしかしませんよ。いいじゃないですか、嫌がらせ。嫌がらせは心の健康に不可欠なのです。アナタもずいぶんとストレスを溜めていますよ? このままじゃ近いうち、アナタが押し潰されてしまう。そうなる前にまず、復讐すべきです!」
「復讐、かあ……」
 ちょっといいかもなあ、と傾き始めた俺の心にするりと滑り込むようにおっさんのふくよかな声が響く。
「一口に嫌がらせと言っても、相手に効かないようでは意味がない。そこでわが社ではその人に最適な嫌がらせを提案、実行しておりまして、これが皆様にたいへん! ご好評いただいて……」
「ははあ、分かった! なんか変だと思ったらあなた、セールスマンですか」
「世の中最終的にものを言うのは銭ですからね」
 悪びれもせず狸爺が太い芋虫のような指先で円を作ってニタニタ笑う。
「でも俺、金なんかないですよ。あの女にコキつかわれる割に薄給で。暮らしていくのもやっとです」
「あっ、そうですか。それじゃアタシはこれで……」
 金がないと知ってさっと引いていこうとするおっさんのスーツをむんずと掴んで俺は言った。
「だがあなたの言い分はごもっともだ。どうです、俺、会社辞めますからお宅で雇ってくれませんかね」
「はいっ?」
 はじめておっさんが焦ったように身をのけぞらせた。
「だってそうでしょう。俺だってあなたの話を聞いて、もうやる気満々だ。それに確かに復讐屋は人間的でクリエイティブで世の中を円滑にする素晴らしい仕事だ。今の仕事なんかそれに比べたらクソの役にも立たない。これこそが俺の天職だと今気づいたんですよ!」
「ええー。そんなこと言う人、はじめてですよ……」
「俺は本気です!」
 懐から取り出した真っ白なハンカチで顔の汗を拭き拭き、おっさんは困ったようにこう言った。
「しょうがないなあ、もう。言っときますけど仕事キツいですからね」
「かまいませんとも」
「福利厚生なんてないし、なんなら厚生年金入れませんよ?」
「どうせ限りなく違法なんでしょ、望むところです!」
「話が早くて助かるけど……なんか思ったのと違うんだよなあ」
 こうして俺はとっとと退職し、未知の業界に身を投じたのであった。

 

 復讐屋の仕事は決して楽ではなかった。俺はおっさんに色々と教えてもらいながら、ひとつひとつやり方を覚えた。おっさんはどちらかというと営業が得意で、俺は他人を陥れるのが大好き。ずんぐりしたおっさんよりも、まだ若い俺の方がフットワークも軽かった。
 そしておっさんは人にものを教えるのがうまかった。
「いいですかあ? 復讐は段取り八分に営業二分です。実行する前に事前準備で勝負は決まります。まずは対象をよく知ることから始めましょう」
「その営業二分というのは?」
「ああ、それは失敗した時に適当に言いくるめて誤魔化す技術ですね。アナタにはそこまでは求めませんから、先に八分の方をしっかりやりましょう」
 なんだかあやしいことを言っているが、俺とおっさんはデパートの屋上から双眼鏡を使ってマンションの一室を覗き込んだまま会話を続ける。
「自分にとってはひどい嫌がらせだと思ったことが、対象には何の効果もなかったり、下手をすれば嬉しいことだったりする場合もあります。実際アタシなんか、ひどい目に遭わせようと思って苦労して対象を離婚させたら、かえって感謝されてしまったことがありますよ。なんでも奥さんとんでもない悪妻で、パチで給料全部スッちゃうそうなんですよね……」
「えっ、それ依頼人にはなんて言ったんです?」
「そりゃまあ、二分の方でなんとか納得していただきました」
 逆にその営業技術の方が気になるんだが。
 俺たちは暑い中尾行したり監視して、他人の趣味や交友関係なんかを探りに探った。
 俺は練習がてらあの女の調査も独自に始めてみたが、たとえばあの女の場合は家族構成は老いた母親と二人暮らし。母親の方は介護が必要というほどでもないけど、まだらボケが始まっているということも分かった。
 へえ、あいつ、毎日遅くまで残業して、そこから親のために飯とか作って冷蔵庫に入れてやったりしてたんだな。俺の前ではツンケンしてばっかだったけど、母親の前ではあんな優しそうな顔してんだ。ほんとは仕事なんかせず、お母さんの面倒みてやりたいのかなあ?
 が、それとこれとはまた別の話。なんたって俺は入社以来、積もり積もったストレスが溜まっているんだから。
 俺は気を取り直して今日もまた双眼鏡を覗く。

「我々が知るべきなのはなんと言っても対象の人間性なのです。どういうことが嫌がらせになり得るかだけでなく、それに対してどんな反応をしてくるか、というのも大事なことです。実際アタシもはじめたばかりの頃は加減を間違えて、徹底的に復讐したら警察に通報されて、大変な目に遭いました」
「通報っ? 何したんですか」
「いえね、対象のご自慢のベンツにうんこ塗りたくって便ツにしてやっただけなんですけどねえ。器物損壊だそうで、書類送検されましたよ、あはははは」
 たぷたぷした腹をさすって笑い声は出しているが、目が全然笑っていない。おっさんは短い首をひょいと縮めて「いやはや」と続けた。
「あの時は、アタシのトークスキルでなんとか不起訴に持ち込みましたけどねえ。あやうくうんこで前科がつくとこでした。はっはっは、うんこはやはり、人の心を狂わせますなぁ」
「まあゴリラもうんこ投げますしね」
 俺たちはおっさんの話術でうまいこと言いくるめて同級生に貸してもらったあの女の中学校の卒業アルバムをめくった。
「いいですかあ? 人間性というものは過去が形作るものなのです。こういう何の変哲もない中学生のスナップなんかにも、重要な人間性が見えたりします」
「そう思ってさっきからあの女探してんですけど、写ってないんですかね、全然」
「そんなことはありません。こういう業者やアルバム委員はまんべんなく全ての生徒を載せるようにしてきますからね。あ、ほら。この人、そうじゃないんですかあ?」
「えっ」
 おっさんのふくふくした指が差した中学生を見て、息を飲んだ。言われてみれば、どことなくあの女の面影……個人写真を確認したが、間違いない。そうかあの女、中学の時はこんなに太っていたんだ。陰気そうにうつむいた中学生はいかにもいじめられています、という顔をしていた。
 その後もおっさんに教えられた要領を駆使して調べてみたら、小学校まではごく一般的なそれなりにかわいい子どもだったあの女、中学一年の時に父親を不慮の事故で失くして、暗く塞ぎこんだそうな。最初は腫れ物に触るようにしていた友人たちも陰気にストレス太りしてゆく女が鬱陶しくなり、仲間はずれから軽いいじめが始まった。高校に入った頃にはそういった事情を知らない無邪気な高校生たちのターゲットになって、暴力暴言なんかをよく受けるようになったらしい。
 そして一年浪人してそれなりの大学に入学した時に、別人のように痩せて生まれ変わった。この頃の知り合いは皆がみんな「やたら気の強い女」だったと言っている。いわゆる大学デビューらしいが、ちょっと普通と違うのは、モテようとか友達を作ろうという変身ではなくて、とにかく何に対しても強気強気の人間になって、友人や先輩どころか教授にもガンガン突っかかっていくようになったということか。
 へえ、あいつ、俺たちだけでなく上司とか時には社長や取引先にもかなり強くものを言うからクソ生意気で生まれた時からそういう奴なんだと思っていたけど、あいつなりに苦労はしていたんかなあ?
 が、それとこれとはまた別の話。なんたって俺は入社以来、いつまたどやされるんじゃないかと毎日気が気じゃなかったんだから。
 俺は気を取り直して今日もまたどこかの他人の同窓会の日程を調べる。

「そして何につけても重要なのは、対象が大切にしているものを知るということなのです。ひとの価値観というのは本当に多種多様です。実際アタシもある人物の預金を全額騙し取ったこともあるんですが、いやあ、たまげましたね。三千万取られてもビクともしない人間がいるとは思いもしませんでしたよ、はっはっは!」
「しゃ、しゃんぜんまん!」
 よくそんな大金持ってたなと思ったらどこかの企業の社長だったそうで、一文無しになっても何も困らなかった男が飼ってた犬が病死したとたん、卒倒して大理石のテーブルに頭ぶつけてお亡くなりだそうである。三千万より犬……そりゃまあ命に値段はつかないけれども。
「その三千万どうしたんですか?」
「え。アタシが戴きましたけども何か?」
「さっき騙し取ってとか言ってましたけどそれって詐……」
「そんな滅相もない。アタシは依頼人のために対象から金を奪っただけであって、それはあくまでも手段。目的はそこにはありません。私利私欲とはまるで無縁の純粋な善意ですから」
 いや詐欺は詐欺だろ? とは思うがまあいい。どうせ俺の金じゃないし。
「しかしアナタの元上司、毎日会社と自宅の往復で、男がいたかと思えば婚活で一回デートしてすぐに交際終了……味も素っ気もない生活を送っているようですなあ? 結構稼いでいるはずなのに、一体何に使っているんでしょ。貯金が趣味というやつですかなあ?」
 いやそれは違うんじゃないか。俺も長い年月をかけて奴を調べて分かったことがある。あの女は「好きで仕事をしている」。誰かに褒められるとか出世、ボーナスなんかのために仕事をしているんでもなくて、単純に仕事が好きで好きでたまらないんだ。それなのに周りの俺らが毎日やる気なさそうに、いい加減な仕事ばかりやっているのが許せなかったんだろうと今にして、思う。
 あいつ、ほんとは製品開発がやりたくて入社したみたいだけど、社の意向で最初は営業、そこで早くから頭角を現したもんだからマネジメントに回されて、それでも日々やり甲斐を求めて俺らに発破かけていたってことか?
 が、それとこれとはまた別の話。なんたって俺は入社以来、あいつに褒められたことなんて一度もなかった。飴と鞭とは言うけれど、あいつは鞭と蝋燭だったんだ。そんなんドМじゃなきゃ勤まんねえに決まっているだろうが!
「ほう。仕事が趣味。そういうことならいい案が、ありますねえ?」
 ニヤーリと満面にあくどい笑みを浮かべるおっさん。
「な、なんですか?」
「簡単ですよ。会社にいられなくしてやればいいんです。それも解雇されるのが一番効きますね、アタシの経験上」
「でもあいつ、仕事はデキる方ですよ、悔しいけど。解雇なんて」
 鼻白んだ俺にずいと顔を近づけておっさんが言う。
「最近のトレンドじゃ、情報漏洩! これに限ります。なぁに、アタシに任せなさい、一か月でちょうどいいウィルスを創ってあげますよ。アナタはそれをちょちょいっとパソコンに入れてあげればいい」
「それ俺の犯罪になりません?」
「ですから、それを奴の自宅に仕込むのです。自宅に機密情報を持ち帰った時点で対象の落ち度が確定しますから、間違いなく対象は解雇、場合によっては損害賠償なんてことにもなりますよ、うひひひひ!」
「うーん? 俺も訴えられる可能性……」
「何をためらっているのですか、白石さん! 訴訟や警察が怖くて復讐ができますか。一切の感情を捨てて遂行するのです。そうです、これは天誅ですよ! アナタが神となり、復讐の雷を食らわせるのです! さあ。さあさあさあさあ!」
 ずいずい、と俺の顔面におっさんの狸顔が近づき、生暖かい息がかかった。
「分かった、やります、やりますってば!」
「それでこそ、男です。今までの経験を生かしてぜひ、地獄の復讐を完遂してくださいねえ」
 それで俺は気を取り直して計画を練り、そして一か月後、おっさん特製ウィルスを手に奴の自宅に参上、というわけだ。

「この四年ずっと?」
「ああそうさ、来る日も来る日もお前のことを調べ上げ、お前のことで知らないことなどもう何もない! 先週またお見合い断られたことも全部まるっとお見通し……」
「もしかして、好きなの? そうなんでしょ、そうでなきゃ四年もストーキングしないわよ、ねえ?」
「ファ?!」
 俺の四年間の血の滲むような努力をストーキングの一言で片づけて、はにかんだような目を向けてきた。
「それならそうとそんな回りくどいことしないで言ってくれたらよかったのに」
「違う! お前昔から人の話聞かないとこあるよね? 違うから、いやほんと違うよ?」
「ツンデレ……?」
 うわ勘弁してくれよ、と天を仰いだ瞬間気がついた。
 いや待てよ? こいつの貯金すでに割と……それに婆さんは半分ボケてっから気づかな……あと前から思っていたけどこいつはブスではない。昔は太っていたようだが少なくとも成人してからずっと体型も維持……
 うん、イケる!
 脳内で俺のカンピューターが光速で話をまとめた。
「仕方ねえな。それじゃあ、こいつを感染されたくなきゃ、俺と結婚してもらおうか!」
「どうしてそういう言い方しかできないのかなあ、白石君は」
 まんざらでもなさそうにバカ元上司が肯いた。
「好きなら好きって、ちゃんと言ってよね」
 そういうことではまったくないが、とりあえず話はついた。俺は「じゃあ婚姻届あとで持ってくるから印鑑用意しとけよ」と言い置いてとっとと部屋を後にした。

「えぇ? それじゃ、復讐はもうしないんですかあ、もったいない」
 不満げに鼻を鳴らしたおっさんに俺ははっきりと答えた。
「ここからが復讐ですよ」
「ほう?」
 急に嬉しそうにおっさんが身を乗り出す。
「俺はこの仕事も辞めて、クソニートになります。あいつは働くのが趣味なんだから、せいぜい稼いでくればいい。俺は使いたいだけ金使って、飯もあいつに作らせて、なーんにもしてやらないし、無論離婚もしない」
「なるほどそういうことですか」
「会社じゃさんざんコキつかわれたんだ。これから時間をかけて、俺があいつをコキつかってやる番ですよ」
「それじゃあ、白石さんともお別れかあ。さびしくなるなあ!」
 言葉とは裏腹に妙にすっきりした声でおっさんはまるまる太った右手を差し出した。
「いや俺もですよ。あなたのおかげで俺は、復讐の本質を知ることができました」
「復讐は人間の極めて人間的な人間のための行為なのです」
 固く握りしめたのは右手。俺の左手には真新しいプラチナの指輪(リング)がキラキラと輝いて太陽を跳ね返した。
 


(了)