蟹のカイロ

「ねえ、なんか棚に変な缶箱みたいのあるんだけど、捨てていいやつー?」
 歳末らしく大掃除をしていたら、夫がキッチンの踏み台の上で首を伸ばしながらそう訊いてきた。私は透明のビニール袋を軽くとじながら振り返って見上げる。
「さあなにそれ、知らないけど……」
「知らないわけないでしょ、俺のじゃないんだから」
 夫は顔をしかめながら手を伸ばして銀色の缶箱を棚から下ろす。
「よっと。さあ開けてみよう。へそくりだったら、見つけたもの勝ちだからね」
「ちょっと。あなたのじゃないんでしょう、へそくりだったら私のなんじゃない?」
 笑いながら夫が箱を開け、そして落胆しながらこう言った。
「なんだ、ゴミしか入ってないじゃん。てか、このカイロいつのだよ。なんでこんなもんいつまでもとっておくかなあ!」
 呆れた口調でそれをつまみ上げた夫に、私は悲鳴を上げてしまった。目を丸くする夫から古びた使い捨てカイロを奪い返して、私は深い溜息をつく。
「あれ……ごめんなんか大事なものだったの?」
 後ろから覗き込んできた夫に、私は笑いながら答えた。
「ああごめんごめん。たしかにほかのひとから見たらただのゴミよね。でも見てこれ、絵が描いてあるでしょう」
「ほんとだ。……でも、なんでカイロに蟹なのさ?」
 不思議そうに首をひねった夫に微笑みながら私はカイロの蟹をそっとなでた。
「あのね、これは実はね」

 よくお腹を壊す子どもだった。別にアレルギーとか食あたりとか、そういうことでなくてもすぐお腹がしくしく痛む子どもだった。
 特に冬の朝はひどくて、学校にも行きたくないとグズる私にママは面倒臭そうに溜息をついた。
「誰に似たのかしらね。うちの家系は胃腸は強いんだから、あんたのそれはナマケ病よ。さあカイロでも持って早く学校へ行きなさい」
 私は使い捨てのカイロをお守りのように持たされて学校へ行った。このお守りは指先くらいはあたたまるけど、全然一度も効いた試しはなかった。

「まあちゃんは、いつもカイロを持っているんだね」
 夕方になってもうひとつもあたたかくないカイロを握りしめている私にお絵かきの先生がそう指摘したことがある。私のカイロについて言及する大人は、あとにもさきにもこのひとだけだった。
「朝、おなかがいたくなるんです」
「そうなの? そいつは困ったねえ。おなかは身体の中でもいちばん大事なところだから、よーくあっためて寝ないとだめなんだよ」
 先生はそう言って目を細めた。
 お絵かきの先生は、パパとじいのちょうど間くらいのおじさんで、このあたりではちょっと有名な画家の先生なんだとママは言う。
 実際、小学校の図書室に見上げるほど大きなキャンバスの絵がかかっていて、あれを描いたのは先生だという話だった。私はあのちょっと顔の長い女の子が座って本を読んでいる絵が、同級生たちに怖がられていて「深夜二時になると女の子が絵から出てきてマッハ三で校庭を走る」と言われていることを先生には言えなかった。
 うまいんだか下手なんだかは分からなかったけれど、男の子たちが呪いの絵と呼ぶ理由は分からないでもなかった。緑の服を着た女の子の顔と首がやたら長くて肌は透けるように白くて、おまけに背景の色が群青と黄土色でなんだか暗い色合いだったから。
 もっと明るい、そうたとえばルノアールみたいな色で描けばいいのに、なんて私は先生の絵を見るたびに思っていた。
 先生はプロの画家だったけれど近所の子どもに格安で絵を教えてくれていて、ママはお絵かき教室と呼んでいた。先生の家は窪地の途中にあって、長い長い坂を下って行って上って帰る、それを二週に一度繰り返していた。
 私は画家になりたかったわけじゃない。むしろ絵が全然得意じゃなくて、なにを描いたか当ててもらえる方がまれだというくらいのものだった。ママのイトコのりょうこおばちゃんがちょくちょく手紙に「娘の描いた絵」を送ってきて、ママははるかちゃんの絵を見るたびに機嫌が悪くなった。
 いつもおんなじだから覚えてしまった。ママはまず封筒を見てちょっと顔をゆがめる。次に念入りに封筒の底をとんとんってして、はさみで上をジョキジョキと切る。まずはりょうこおばちゃんの手紙に目を通して「ふん」と言って、それからはるかちゃんの絵をじいっと見る。このとき、ママの目はより目になっててちょっと怖い。ママはそのあとはるかちゃんの絵をひっくり返して必ずこう言う。
「ふん、どうせ親が手を入れているんでしょ!」
 そしてそれから長い溜息。
「それにしても、うまいわねえ。うますぎて、子どもらしくないのよね!」
 そんでもってママはしらん顔している私を睨む。
「はるかちゃんと同い年なのにあんたときたら……!」
 はるかちゃんは美大に行くらしいとママはよく言っていた。
 ここまではいつもの話。そしてこの日、ママは意を決したように息を吸って、鉛筆を握ってくもんのプリントをやってる私に向かってこう言った。
「ねえ、あんた、お絵かき教室に行きなさい。あんただって絵、上手になりたいわよねえ」
 ううん全然。なんて言える空気じゃなかった。
 こうして私の習い事がまたひとつ、増えた。

 さいしょはいやいやだったけど、行ってみたらお絵かき教室はなんだか楽しかった。
 先生は私に大きなスケッチブックを一冊くれて、空いてる好きな席に座って描いてごらんと言った。小学生にみえる子どもたちはみんなこたつに脚を突っ込んで、なんだかまじめそうな顔をしながらこたつの上の花瓶の絵を描いていた。
 こたつの上にはなんてことない小さいガラスの花瓶と、花が五本ぐらい雑に突っ込まれていて、それからクレヨンと鉛筆がばらばらと散らばっていた。
 私は同じ年くらいの男の子の隣に座って、とりあえず鉛筆を持ってみた。
「見たままを描いてごらん」
 先生はそれしか言わなかったから、私は見えた通りに描いたら、なんか花瓶はひん曲がって花はぐにゃっと歪んでしまった。先生はしばらくして私のスケッチを覗き込んで、
「ちょっとかしてごらん」
 なんて言ってスケッチブックを取り上げた。それからさささーっと手を動かして、私がうまく描けなかったところをあっという間に上手に直してしまった。
「うわあずっるいの!」
 隣の男子が黒縁眼鏡の奥から私を睨んで、それから私のスケッチをじろじろと見てこう言った。
「でもさ、この絵、まだおかしいよ! くきんとこ、ぶっとくなって、へーんなの!」
 私の描いた絵の中で、先生が直してくれなかったところを目ざとく見つけたのだろう。私の花の茎はすーっとまっすぐ伸びているのに、花瓶の中だけ急に太くなっておかしなことになっていた。
 先生はニヤニヤ笑いながら答えた。
「いいのいいの。これはね、屈折って言って、そう見えちゃうんだから、これでいいの」
 ぶうたれている男の子はまだ納得いなかいようで「でもおかしいじゃん」なんて言っていたけどやがて自分の絵に色を塗り始めて大人しくなった。
 先生は私の頭に大きな手を乗せて「きみは、ものをよく見ているね」と言って笑った。
 私はそういうつもりじゃなくただうまく描けなかっただけなんだと答えることはできなかった。
 先生の手のひらは、ママの手よりもずっとずっとあたたかかった。

 先生は私にいくつか絵の描き方を教えてくれた。
 はみ出してもいいよ、大きく描いてごらん。はみ出したらどうすればいいの。そんなの、そのままはみ出させておけばいいよ。
 背景をつけたかったらね、暗くて重たい色を下の方に塗ってごらん。上から下まで同じ色よりずっとずっと奇麗なんだよ。失敗したらどうしたらいいの。失敗したらまた上から塗り直していいよ。いいのいいの、どんどん塗っちゃえば失敗したとこなんてわかんないんだから。
 上手に描こうなんて思わなくていいんだよ。好きなように描きなさい。好きなようってどんな風に? てきとうに、好きな色で塗ったらいいよ。ピンクの熊でも、緑の太陽でも絵に描くぶんにはタダだからね。緑の太陽なんて怖いよ! 大丈夫、描いたくらいじゃ太陽は緑になんてならないんだから。

 先生は私がどんなにへたくそな絵を描いても笑わなかった。「うん、うん」とだけ言ってささっと直して、ぱぱっと色を塗り重ねてなんだかうまいことごまかしてくれた。私は絵を描くのが怖くなくなった。
「先生、できたよ!」
 今日はデッサンの日じゃなくて、好きな絵を描いていい日だったから私はプールで泳いだ絵を描いた。例の黒縁眼鏡の男の子がすかさず覗き込んで「うわあ変な絵!」と言った。
 先生は人差し指を手に当てて「しー」と言った。それから私の絵を見て、大きく頷いた。
「僕の言ったこと、ちゃんと理解してるんだね」
 私の絵は人間の身体を全部楕円で表現していた。肩は頭が二つ分の長さ。胴と脚は同じ長さ。手のひらは顔と同じくらいの長さで、腕は肘を真ん中に半分にわかれる。関節のところに全部まるを描いて、それぞれのパーツが曲がっているか伸びているかを描いていた。
 私はいつの間にか、人体にアタリをつけられるようになっていたのだ。
「じゃあ、丸人間じゃかわいそうだから、筋肉とか服を着せてあげよう」
 そう言って先生は私の描いた丸人間たちに奇麗な筋肉と水着を着せてくれた。ふうん、そうやって丸人間は人間になるんだなと私は思った。
 この頃から私は、極端に脚の細い人間だとかやたら頭のでかい人間なんかを描かないようになっていた。

 

 小学四年生の時、私は図工でクラス賞をもらった。宮沢賢治のやまなしの、蟹の兄弟の絵だった。
 クラムボンはわらつてゐたよ、というあれだ。
 ママは賞状を見て「でもクラス賞って、クラスで一人はもらえるんでしょう? どうせなら市のコンクールにでも出してみようかしら」と言った。
 先生は私の絵を見てにこにこしながら「いやあ、カニ! って感じだなあ」と言った。そりゃあそうでしょ、と私は答えた。
 だって蟹を描いたんだもん。

 五年生に上がるとき、珍しくママがお絵かき教室についてきた。そして笑いながら先生に、甲高い声でこう言った。
「今までお世話になりました。この子、受験をするので今日限りで辞めさせていただこうかと」
「へえそうなんですか」
 先生は平然とそう言った。眼鏡の男子が黙ったままじいっとうちのママを見てた。
「今月ぶんのお月謝はもう精算なしで結構ですわ。あと、つまらないものですけどこれ、召し上がって下さい」
 デパートの包みに入ったお菓子の箱を先生はクレヨンで汚れた片手で受け取って、そのままひょいっとそのへんの床に置いた。先生は「どうも」とすらも言わなかった。
「さあ、帰るわよ。お礼を言いなさい」
 ママがそう命令して、私は先生にぺこりとお辞儀をした。
「……ありがとうございました」
 先生は私の顔を見つめて、それから「あ、お母さん、ちょっとだけいいですか」と言って先生の描きかけのキャンバスが置いてある部屋に私だけを入れてくれた。
 先生は笑いながら「また絵が描きたくなったらいつでも来ていいからね」と言った。
「お母さんには内緒で来たらいい。絵の具もクレヨンも、全部ここにあるんだから」
 泣き出さないようにぎゅっと奥歯を噛みしめたままの私に先生は困ったように肩をすくめて、私が持っていた冷たくなったカイロにささっとペンで走り描きをしてくれた。
「ありがとう先生」
「僕はあの絵、すごく好きだよ」
 私にはもう先生の笑顔がにじんでよく見えなかった。

「なに話してたのよ、遅かったじゃない」
 不機嫌そうに言うママに私はカイロの蟹を見せて一言、「描いてもらった」とだけ言った。私の声は鼻声だったけど、ママはそんなことには気づかずにちらっと視線を私の手に向けて答えた。
「あらそう。へえ、うまいもんねえ。さすがにプロだわ。……でもなんで蟹なんか?」
 私は少し笑って「先生、蟹鍋好きだから」とだけ言った。

「ふうん、それで蟹なんだ」
 夫が感心したようにそう言って、そこらへんのチラシを裏返して私に寄越した。
「ねえなんか描いてみてよ」
「なんかってなによ」
 笑いながら私はボールペンでささっと猫の絵を描いた。夫は目を丸くして声を跳ね上げた。
「ほんとだ! まあって絵、描けたんだ」
 知らなかった知らなかった、と夫ははしゃいで、私は夫にもペンを持たせてみた。
 夫が唸りながらなんだか線のひょろひょろした四つ足の生き物を描き始める。
「ああなんだっけそれ。草食の恐竜でしょ、ええとほらなんだっけ……プラキオ……いやブラキオサウルス?」
「ちがうよ! キリンだよキリン!」
 頭を抱えて悲鳴を上げた夫の手元のそいつはどこからどう見てもキリンには見えなかった。
 けらけらと笑いながら私たちは夫の描く絵を当てる遊びを始めてしまい、結局チラシの裏がオバケや怪獣で埋まる頃にはもうすっかり日が落ちて、大掃除はとうとう年をまたぐことになった。
 私は蟹のカイロをまたもとの缶にしまって、出したときと同じキッチンの一番上に入れておいた。

 先生、蟹のカイロはいまもまだ、あの中であたたかいままです。
 


(了)