木下桜が笑ってる
たそがれ、とはよく言ったもので、さいしょ僕は夕方の逆光に照らされた桜木の下にいる彼女が誰なのか、わかってはいなかった。
ひらひらとこぼれ落ちるうすもも色のはなびらをすくい上げるように両手をかかげた女の子が木下桜であることに気がついて、僕はついふっと笑ってしまった。
よりによって一番いちゃいけない人間が、満開の桜の木の下なんかにいたわけで。
そして笑ってしまったその後で、僕はそれがとても奇麗なんだということにようやく気がついた。
意外と容赦なく吹いてきた春風に、桜の花と木下の黒くてさらさらした髪の毛が舞い上がって夕陽をきらきらと反射した。
「ねえ、今、みえた?」
薄い唇の端をもちあげて、木下桜が澄んだ声でそうきいた。
「なにが?」
「ふふ。みえたくせに。しらじらしいね」
嘲るような声音で、猫のように目を細めて、木下は楽しくて仕方がないとでもいうようにくすくすと笑っていた。
「だから、なんのことだよ」
少し強く言ってやったら、木下は恥じらう風もなくやけにゆっくりと答えた。
「なにって、あたしの、水色のパ、ン、ティ」
にやにや笑いを浮かべたままで、まばたきもしない木下の目が僕をまっすぐに見つめていて、僕は一瞬呼吸も忘れてしまった。
「うわ赤くなっちゃって。かーわいい」
「ばっ……か、夕陽の色だろ、赤くなんてなってないからっ」
自分で思ったより弱々しい声が出て、僕はぐっと奥歯を噛みしめた。なんだかすごく悔しくて、恥ずかしかった。
「そんなによかった? ねえ、もう一回、見せてあげようか。パンティ」
木下がいやらしくパンティパンティ言うもんだから、僕はどうしてもこの女をずたずたにしたくなって、にやにや笑いの目を睨みつけながら大きな声で吐き捨てた。
「いらねえよ! だってお前、バイシュンとかしてるんだろ。みんな知ってるんだからな、お前がそういうオンナだってことなんかさ!」
木下桜は売春女。
そんなこと、誰だって知っている。
大人しそうな顔して、アイドルみたいな長い髪して、木下は援助交際してんだって。隣の駅のラブホの前で汚いおっさんと待ち合わせてたとか、中学の時にはすでにパトロンがいたとか、処女も十五万で売ったんだとか。
みんなの噂になってることを、知らないのはたぶん本人だけだ。
調子に乗りやがって。クソビッチ!
ざわざわと風が鳴って、夕暮れ時のにおいと一緒に木下の短すぎるスカートが吹き上がる。
木下はさいしょ、ちょっとびっくりしたような顔をした後、顔をくしゃくしゃにして真っ白い歯を見せて笑いはじめた。
「あはははは、やだもう、おっかしー」
「ご、誤魔化すなよ、援交オンナ!」
ぐっと拳を握り込んだ僕に、木下がぐいっと近づいてきて、土でも桜でもない甘く濡れたようなにおいが僕の鼻先をかすめた。
「じゃあ、君にだけ教えてあげるね。それ、全部嘘だよ。だってみんな、あたしが流した噂だから」
「え」
頭の中が白くなって、すとんと血の気が引いていくような、不思議な感覚だった。
僕が何かを考えつくより早く、木下桜は僕の耳にふうっと息を吹きかけた。
まるで春の女神が桜に花を咲かせるように、ももいろの息吹が僕の首筋に鳥肌を立たせた。
「なんでそんなうそを」
本当に嘘なのだろうか? だってそんなことして、何か意味があるのか?
みんなから距離を置かれて、陰口をたたかれて、体育のときいつもパス練習のペアがみつからなくって。
なんのために?
「だって月がとっても奇麗だったし」
そう言って木下桜はいつのまにか群青色に塗り変わってしまった空を遠く指さした。
「ちょうど、あんな、ふうに」
歌うように指し示す白く尖った人差し指の先をたどると、薄っぺらい半月が青ざめた桜の向こうに浮かんでいた。
「そっちが、嘘なんだろ?」
だんだん分からなくなってしまった僕の声は、自分でもかわいそうになるほどおどおどと揺らいでいた。
「そう思いたいなら、それでいいんじゃない? あたしは別に、君にどう思われてもかまわないから」
自信たっぷりの木下の声は凛と澄んで僕の三半規管をくすぐった。
ほんとに? 本当に全部嘘なんだろうか。全部木下が流したデマなんだろうか。
迷いながら見つめ返した木下の目はきらきらと冷たく光っていて、その白くまっすぐなふとももがまるでつきたての餅みたいに見えた。
完璧だった。
とてもじゃないが、援助交際なんてしそうには、脂ぎったおっさんと寝るような女の子にはみえなかった。
うすくて儚いさくらのはなびらみたいに、透き通りそうなくらい、ただ奇麗で。
でも。だったら、どうして。
そのネコみたいな目の上で一直線に切りそろえられた前髪と同じに、ちょっと変わった女の子に見られたくて、そんなことを言ったのだろうか?
そんな理由で女の子は、金でおっさんに抱かれるなんて自分から言い出すだろうか。
嘘の痕跡をみつけようと目を凝らす僕から視線をはずそうともしないで、木下桜はもう一度言った。
「でも君にだけは、ほんとのことおしえてあげるね」
そんなの全部デタラメだよ。
みんなあたしに騙されてるだけ。
おかしいでしょう?
「なんで? なんで僕だけ」
ほとんど反射的に聞き返した僕に木下桜はふっと眉毛をゆるめてこう言った。
「だってなんか、笑っちゃうほど平凡だから」
「え?」
平凡って何がだ。
なんだかひどく失礼なことを言われたような、だけど不本意ながらもすとんと納得できてしまうような、なんとも言えない気分になった。
それきり木下は何も教えてくれずに、まるで興味のなくなったおもちゃを放り投げるように唐突にくるりとあっちを向いて、またひとりぼっちの花見をはじめてしまった。
だから本当は何がほんとで何が嘘なのか、それとも単にからかわれただけなのか、なにひとつ確かなことなど分からないままそれきり僕は木下と口を利くこともなく、その三日後通い慣れた高校を卒業した。
でも君にだけは、ほんとのことおしえてあげるね。
それはまだ柔らかかった僕の心のまんなかに、杭のようにしっかりと突き刺さった。
淡い色して舞い落ちる桜吹雪と短すぎるスカートから伸びたあの白くて奇麗な足と一緒に。
「明日になったら卒業なんて、なんか信じられないなあ」
開け放した窓からほんのりと色づいたはなびらが一枚風に乗って運ばれてきて、僕の教え子が明るい溜息をつきながらそんなことを言った。
「まあみんなそんな風に卒業していくものだから」
「へえ。先生も? ねえ、先生はどんな高校生だった?」
行儀悪く机におしりを載せて、健康そうな足をぶらつかせた女子高生が僕に訊く。
「……そうだなあ。先生の高校にも桜が植えてあって、ちょうどあんな風にさ」
窓の外を指さした僕に、疑うことを知らない少女が笑いながらうなずく。その透明なまなざしに射貫かれて、僕はなんだか急に冷めてゆくのを感じた。
もう何回も繰り返し、三年間の刑期を終えた囚人みたいな教え子たちを送り出して、ベルトコンベアーにのせた商品を出荷するみたいに、何度も何度ももう何度も、入学式と運動会と定期試験と夏休みと修学旅行と受験と卒業式を繰り返して、そういうことがなぜだか急に、全部が全部馬鹿馬鹿しく思えてしまって、僕はじっと教え子の唇をみつめた。
口紅なんて塗らなくてもつやつやと光った、まあたらしい唇を。
「あのさ、中島」
「ん?」
なぜそんなことを言ったのか、僕自身にもよくわからなかった。
たぶん桜があんまりさくら色で、なぜかそれに僕は苛立っていた。
「お前にだけ教えておくけどさ、実は先生」
買春してるんだ。
僕のことばを理解した瞬間、中島の目が大きくみひらいた。
くるくるとよく動く子どもの目に、軽蔑と恐怖がマーブル模様に色づくのを僕はどこか敬虔な気持ちでみつめていた。
「え、うそ……」
中島は僕のことばを簡単に信じた。
「嘘じゃないよ。じゃあお前もしてみる? お前処女だろ、高く買うよ?」
「あ……あんた、最低!」
ガラス玉みたいな何の魅力もない大きいだけの目玉に涙まで浮かべて、中島はぴょんと机から降りて空っぽの教室を飛び出していった。
桜のみえる教室に一人取り残されて、僕は春の風に目を細めた。
そんなの全部デタラメだよ。
みんなあたしに騙されてるだけ。
おかしいでしょう?
もしかして、僕はこれで職を失ったりするのだろうか。
いやそもそも教師になんてなったのが間違いだったんだ。
ざわざわと音を立てて風が枝を揺らして、ひよわな花がさざめきながら校庭に舞い落ちてゆく。
もうどうしようもないくらいに春のにおいが立ちこめていて。
間違いなく美しいと思っているのに、僕は桜を好きにはなれない。
僕の中では今もまだ、木下桜が笑ってる。
(了)