top of page

俺の同期は忠犬ぽち公

 静まりかえったオフィスは節電のため三分の一しか電気が点けられていなかった。
「あーうー……立地は完璧なんだよなあ、うーん」
 その電気が点いている島の真ん中でぶつぶつ言いながらまだ残業をしているのは同期のぽちだった。
 こいつってそんなに仕事熱心だったっけか、なんて考えながら俺はぽんと軽くぽちの肩を叩いた。
「なーにやってんの、お前。どーせもう課長も見てねえのに」
 ホスピタリティがどうのこうのと独り言を続けていたぽちが、びくんと肩を跳ね上げて慌ててエスケープキーに指を走らせて俺に振り向いた。
「びっ……! くりした、ってなんだお前か」
 その慌てぶりにまさかこいつ誰もいないのをいいことにエロ動画でも見てやがったのか、なんて思って画面を覗き込んだが、そこにはなんの変哲もない都内の地図がフルスクリーンからほんのひとまわり小さく表示されているだけだった。
 まあぽちだしな。いくら誰もいなくても職場でエロ動画なんて見るわけが……って、あれ? 都内の地図?
 ふと俺は妙なことに気がついてぽちと画面を交互に見つめた。
「なんで渋谷区? お前の営業エリアは神奈川だろ。あ、まさかお前、都内も狙って研究してんのか」
 ぽちのくせに生意気だが、努力すること自体は悪くない。こりゃ俺もうかうかしてられないなあ、ま、俺今月も売り上げトップ争いしてるけど。ぽちなんかもとから眼中にないけど。
 今月の売り上げグラフを遠目ににやにやしている俺に向かって、ぽちはしれっとこんなことを言った。
「渋谷区は僕の研究エリアなんだ。うまい飲食店専門でね」
 鼻高々に言ってるとこ悪いんだけど、俺にはもう悲哀以外の感情が浮かばない。
 こいつが(主に俺に)ぽちなどとあだ名されている理由が俺の頭の中にふと蘇ってきてなんだか俺は泣きたい気持ちになってきた。
「お前もしかしてまだやってたの? ハナコさんだっけか、確か学生時代のサークルの先輩の」
「カ・ナ・コさんな。カナコさん。今週あたりそろそろ呼び出される頃合いかと思ってね」
 舌の上にその名を刻むだけで変な脳内麻薬でも出ているのだろうか、ぽちは心底嬉しそうにそんなことを言った。しっぽがあったらもう振り千切れてんじゃねえのかと思うくらいの忠犬ぶりだ。
 こいつは入社当時から、ずっとそのカナコさんなる人物を崇拝していて、同期の俺にもたびたびその先輩の話をしてくる。てっきり彼女なのかと思っていたが今のところ清く正しきメシトモなんだそうで、セックスはおろか手もつないだことがないというから驚いた。
 昔からカナコさんカナコさんと言ってるわりに自分から誘うこともできずただただ相手から連絡が来るのを待っているのだと語っていたので「へえそう、いつかいいことあるといいね」と生暖かい視線で見守っていたが、ここ最近しょっちゅうメシのお誘いがあるとか言い出してついにとうとうイカれちゃったのかなあとか思っていたのだが、これがほんとにその先輩から頻繁に呼び出されていたらしい。
 なんでもその先輩とやら、ただいま婚活中で全然うまくいかないんだとかで。
 かわいそうなぽち君相手に毎回えんえんと愚痴を聞かせているのだそうだ。
「お前ってほんと不憫なのな」
 溜息とともに吐き出したこの一言に込められた万感を理解しているのかいないのか、ぽちはなぜか誇らしげに
「島本には分からないんだろうなあ。僕のこの超高度戦略は!」
などと宣った。
「いや、分かりたくもないし。つうかなに、じゃあお前こんな時間まで残業してると見せかけてメシのこととか考えてたわけか」
 そんなこと家に帰ってやれよと思う俺にぽちはあさっての方向にきゃんきゃんと鳴きわめいた。
「メシをバカにするなよ。僕だってカナコさんほどじゃないけどグルメなんだから。僕だってできることなら毎日メシのことだけ考えて生きていたいよ!」
 ほんとこいつどうかしちゃってんだよなあ。顔も人当たりも悪くないし、メシのことしか考えてないわりに体型も維持できてるからたまに女の子から熱視線送ってもらったりしてるのに、全然気づかずスルーしている。そりゃそうだよなあ、だってこいつ、メシのこととその先輩のことしか考えてないんだもの。
「はあ。まあいいや、そんでなに? このフラグ立ててる店がどうかしたのかよ」
 食通を自称するだけのことはあって、こいつの店選びのセンスは悪くはなくて、たまに俺も女の子を連れていくのに利用させてもらったりしている。場所も渋谷区ならデートにちょうどいいよな。円山町に近いとなおよし。
 もろもろの下心を胸にパソコンの画面に視線を向けた俺の耳にぽちのとんでもないセリフが飛び込んできた。
「うん。ボクシュランガイドに入れたものかどうしようかすごく迷ってる」
 こういうとこ、こういうとこだよ、お前! こいつほんとに見た目は平々凡々何の問題もなさそうなのに、一皮剥くだけでほんとヤベえとこすぐ出てきちゃってるから! 化けの皮べろんべろんに剥がれちゃってるからな? って、べろんべろんに? あ、そういうことなのもしかして?
「ボクシュランて……ああ何、お前酒乱なの? っていうかさ、もしかしてお前現在進行形で酔ってる?」
 むしろそうあってほしいと祈る俺にぽちはなぜか誇らしげに鼻の穴膨らませてちらりとスマートフォンの画面なんか見せてきた。
「なわけないだろ。これ僕の学生時代から続けてるライフワークだから。星の数が多いほど僕の評価が高いんだ。もう十年近くやってて、三割くらい閉店しちゃってるけどね」
 うわあもう聞くんじゃなかった。この人やっぱり間違いなく変態だ。げんなりした俺の様子に心痛める風もなくぽちは腕組みしてメシのこと考えてるとは思えないくらいに真剣な顔で言った。
「まあそれでさ。今日の昼偵察した店の評価に困ってるんだよ」
「まずかったのか?」
 そう訊いた俺にぽちは心底蔑むような顔で答えた。バカか? みたいなことを思っているに違いないが、世間一般の尺度から言ってバカはお前の方だぞぽち。お前の認知、あからさまに歪んでるからな。
「まずけりゃ迷う余地なく没だろ。うまかったよ、普通に。コスパもよかったし」
「へえ。店名これか? ふうん、寿司屋か。小洒落てんじゃん」
 寿司屋とは思えぬローマ字表記の店名をクリックしてみる。外観・内観ともにデート向きのシャレオツな雰囲気。これでコスパもいいなら言うことないじゃん? 最寄り駅は恵比寿か、ほうほう。
「去年オープンしたばかりで、土地柄オシャレでカジュアルを売りにしてるんだ。でもちゃんとした江戸前鮨の老舗の系列で、職人もそっちで修行してるからそれは問題ないんだけど……」
 ぽちのありがたーい解説を聞き流しながらさっそくスマホでブックマークする俺に、ぽちは優越感たっぷりの溜息なんぞ、ついた。
「まあいいと思うよ? 普通の女の子ならきっと喜ぶと思うから」
「あ? なんか角の立つ言い方だなあ」
 ぽちのくせに実に生意気である。悪びれる風もなくぽちは続けた。
「いいよなあ、島本は。普通の女の子に普通においしいもの食べさせて、それで、嬉しそうにしてもらえるんだもんなあ。カナコさんはそんな簡単な女じゃないから苦労するんだよ」
 え、なんでこいつ上から目線なの? っていうか愚痴聞きの分際でよくここまでこじらせられるな? あまりの言い草に呆気にとられた俺の前でぽちの独壇場が始まった。って、俺とぽちしかいないけど。
「ホスピタリティも抜群で、オシャレな店でうまい鮨が食える。でもそれじゃダメなんだよ。きっと今日の鮨、カナコさんならきっとこう言う。『なんか、普通ねえ』って。普通にうまいのなんか当たり前なんだ。うまさに、何かこうぐっと来るような! ガツンと来るような! ああまた食いたい、いや食わないと死ぬ! そんなインパクトがありつつしかしけっして偉ぶらない気取らない行列してない、そういう店でないとダメなんだ!」
 なんのことだかさっぱり分からない。ただ呆然と聞いているだけの俺に向かって、ぽちの演説は続いた。
「今日の鮨だって悪くはなかったんだ。まずは鮨定石で淡泊かつ技術の引き立つアオリイカ。江戸前らしく手の込んだ切り方してあって食感もよかった。しゃりの温度管理や握り方なんかも悪いところは見あたらないし。次はアジで薬味はアサツキってのも創意工夫を感じたよ、平凡なアジも薬味次第であんなにコクが出るなんてね。マグロのヅケの握りなんかはいかにも江戸前って感じだし、ちゃんと握る直前にヅケ処理してるから浸かりすぎない上品な味だったな、うん。甘エビはぷりぷりしつつ甘さも十分、ホタテは片面だけあぶりを入れてるとか手が込んでるなあって思うし。イクラもちゃんと柔らかい天然ものだと一口で分かる質の高いものだった。それから……」
 うわっ。何こいつ今日食った寿司の出てきた順番とか薬味とか全部記憶してんのか。いや、今日食ったばかりなら……って。こいつの記憶力の低さは部署内誰もの知るところで、得意先の担当が変わるたびに名刺睨んでぶつぶつ唱えてから外回りに行く姿をみんなが見ているはずだ。
 さてはこいつ、記憶力全力でメシに振ってほかにまわすだけの空きがもうないんじゃないのか?
 俺が宇宙の果てまで引いてる間にも巻物に添えられた漬け物がどうのこうの、赤だしの具材がどうの、とまだべらべらまくし立てている。へえ、味噌汁ってふつう沸騰させちゃいけないのか。そして赤味噌の場合は例外なのか、へえ。俺には一生関係なさそうな知識だな、これ。
「デザートは品のいいアイスが鯛焼きの形の最中に入って出てきて、これもなんか女の人には受けが良さそうな感じだったよ。でも、一緒に出てきたグレープフルーツ風味の緑茶はちょっとやり過ぎだったかな。さすがに女性受け狙いすぎというかなんというか。技術は確かにあったしコンセプトも方向性がはっきりしてる。おまけにリーズナブルな価格設定だし顧客満足度は絶対高いよ」
「あれ? 基本的に褒めてるんじゃねえの、それ。っていうかいいじゃん、オシャレでリーズナブルでおいしいんだろ。文句ないだろそれならさ」
 ふと気がついてようやく言葉を挟めた俺に、なぜか大仏みたいに薄ーく目を開けてぽちは教え諭すようにこう言った。
「いや、だから最初から言ってるだろ。普通にはうまかったから、迷ってるんだよ。そもそもたかだか二千円のランチでうまさプラス何か、なんてもの分かるわけないんだよ。鮨ってのはカウンターで夜、おまかせでコースにしてもらってはじめて、価値が分かるものなんだから」
「え、じゃあなんで昼食ってんだよ」
 至極真っ当なつもりの俺の指摘にぽちは答えた。
「前からチェックしてた店、通りがかったらいらっしゃいませって言われたからさ。腹も減ってたし、雰囲気とか握りの技術だけでも見ておこうと思って軽い気持ちで」
 軽い気持ちで仕事のついでにカウンター寿司とかこいつ、何考えてんだろう。っていうか神奈川担当なのに本当にそこに外回りのついでで通りがかったのだろうか。
「ああなんか喋ってたらやっぱり気になってきた! 島本、乗りかかった船だろ、今日鮨食いに行かないか」
「お前の奢りで?」
 すでにスマホを手に立ち上がっていたぽちは、きょとんとした顔で俺を見つめた。
「なんで僕が島本なんかに奢ってやんなきゃなんないんだよ。ろくすっぽ鮨の味も分からないくせにさ」
「いやいやいや、だったらなんで俺が野郎と二人でシャレオツな寿司屋のカウンターで肩並べなきゃなんないんだよ、意味わからん!」
「ん? さっきブックマークしてたじゃん。島本も興味あるのかと思ったのに」
 心底不思議そうな顔をしつつも、早くもパソコンをシャットダウンして寿司屋の営業時間と電話番号を調べるぽち。
 あのなあぽちよ、普通の男はデートの下見で飯の味なんか調べたりせんと思うぞ。
 それも昼と夜、同じ店で寿司を食おうなんて考える奴なんて絶対にいない。
「あ、もしもし? すみません今日今から伺いたいんですが、大丈夫でしょうか」
 うわあこいつほんとに電話してるじゃん。
 もう引いてるんだか感心してるんだか分からなくなった俺の耳に予想外の言葉が飛び込んできた。
「あっ、じゃあ今から行くんで席取っといてください。二名分で」
 え。二名?
「島本でお願いします」
「っておいこらなんで俺!」
 絶叫したが間に合わず、通話を終えたぽちはにっこりと微笑んで俺の背中を叩いた。
「さ、待たせちゃ悪いし早く出よう。楽しみだなあ、鮨」
「お前は昼も食ったばかりだろうが!」
 呆れとおののきが半分。だけど残りの半分、俺が感じたのはなぜかうらやましさだった。
 自慢じゃないが俺は昔からモテる方で、しかもぽちとは違って他人の気持ちに割とよく気がつく方で、だからこんな風にバカみたいに一生懸命、無駄かもしれない努力を女のために重ねるなんてことしたことなかった。
 たった一人の女のために一日二度同じ寿司屋で……ってだめだ。やっぱ、全然羨ましくない。これっぽっちもすごくもない。
「誰か助けて! やっぱりただのバカだよこのひとーっ!」
 やっと我に返った俺の叫びが、ぽちの手でたった今完全消灯されたオフィスに空しく響き渡った。
(了)

 

bottom of page