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ディア・マイ・スウィートベリー

 冷えた安普請のアパートの真ん中で、よれよれの布団を被ったこたつに足を突っ込む。全然あったかくなってない。俺はしかめ面のまま固くなった指先でこじ開ける。
 プシュン。
 充満した気体の弾ける音がして、これでようやく生き返る。
「ふぃー、やれやれ……お疲れ様、俺」
 スカロング・ゼロ。最近なんかやり玉に挙がっているみたいだけど俺にとっちゃ魔法のお薬ですよ。染み渡るダブルグレープフルーツ。何もかもが濃いからすぐに酔える。酒ってそういうもんだろ。安くて早くてうまくて、酔える。それ以外に何があんのよ。
 定番となったコンビニのやきとり(もも・たれ)二本(店で加熱済み)を取り出してかぶりつく。甘ったるいべたべたのこの味も、くだらん労働の後にはぴったりだ。うますぎず、多すぎず絶妙に満たす。ちょうどいい。俺にはね、こういうもんがお似合いなんだよ、分かってんの? 分かんねえだろうなあ、お医者様にはさあ。
 スカロングなゼロを流し込んで薄っぺらいノートパソコンを起動する。
 ゼロだゼロだって言うけどさ、ゼロは、いいよお。
 俺みてぇなマイナスの人生に掛けたら、ゼロになる。プラスの奴の人生吸い取って、皆平坦にしちまうの。平等ですよ自由ですよ平和ですよ。国民全員これを飲んでゼロになりましょう! そうだそうだそれがいい、皆でゼロなら怖くない!
 パソコンが起動したらまずはツイッターを開く。あっしまったルーペがなかった。俺のルーペはどこだ、白いアズキルーペだよ、ルーペルーペ、かわいいアズキのルーペちゃん、あ……そうださっき掛けたんだったわ、忘れてた。酔ったというよりはこれは眼精疲労ですか。最近掛けてんのに小さい字が見えづらくなってきて……老化か。これがかの有名な老眼なのか。
「はあ~」
 ゼロになったはずの俺が重たくため息をつく。もうだめかもわからんね。どうしようもない。この歳でつまらん作業員の仕事しかなくて(最近一回り年下のリーダーが俺のことオイ落ち武者とか言ってくる)当然金はねえし女もいねえし子供なんているわけないし。もう死を待つのみって感じがしてくる。いいことがない。いいことなんて、ひとつもない。どうせないなら、俺だけでなく国民全員にいいことがなくなればいいものを、いつだって幸運の女神は俺より若いヤツの前に現れる。
 俺が若いときには、来なかったくせに。
 どんよりした気持ちでスカロングゼロをすすりながら、つらつらとツイッターを眺める。有象無象のバカがバカみたいなことつぶやいて、無限増殖してゆく。
「何やってんだろ俺……って、んん?」
 急に目に止まった言葉があった。まさか、ツイッターで見るとは思わなかった単語だった。

【正法眼蔵】仏を超えて
すべからく仏向上人ありとしるべし。
ここで言う仏が何なのか、と言い出すとまたたいへんなことになるのですが、とにかく、仏を超えるという人が「ある」と道元禅師はおっしゃっています。
仏にいたりてすすみてさらに仏をみる。
きっとそれも「道理」なんでしょうね?

 しょ、正法眼蔵? ぱちぱちと目を瞬いて、それからルーペをこすって、そしてもう一度目を凝らした。読み間違いじゃなかった。本当に正法眼蔵って書いてある。しかもたぶん内容から言ってあの正法眼蔵だ!
 俺ねえ、若い頃正法眼蔵読んだんだよ!(一巻だけ)こう見えて曹洞宗だからね。あの難しい本を俺以外に読んだ奴がいるとは思わなかった。でも甘いなあ、やきとりのたれより甘いなあ。こいつ、読み違えてるよ。まあ無理もないよねえ、あの本難しいから。現代人で道元が読めるのは俺だけだから。
 カカカ、と笑ってそいつのアイコンをクリックしてみた。
 姫宮蒼苺。
 変な名前、これなんて読むの? ひめみやあおいちごちゃん? 女の子か。女の子が……正法眼蔵なんか読むかなあ? アイコンは本人の顔写真じゃなくて、なんか下手くそなイラストで青い苺が描かれていた。ちょっと枠からはみ出していた。俺は気まぐれに蒼苺ちゃんにリプをつけてみた。少し、酔っていたのかもしれない。

俺:ボクも「仏向上事」は読みましたが、それは仏を越える人ではなくて、成道した後も「上を向いて」精進していかねばならないという意味だと思いますが。ボクは訳なんかでなく、岩波で原文を読んでいるので、その方が妥当かと。

「ま、こんなもんか!」
 俺は満足してスカロングゼロを流し込む。やきとりはもうなくなったのでビニールの袋の口をちゃんと縛っておく。臭いからね、やきとり。
 蒼苺ちゃんは俺のリプになんて言うだろうか。私が読み間違えておりました申し訳ありませんってちゃんと言えるのかなあ?
 俺はねえ、今はこんな仕事してるけど、一度は東京の大学入学してんの。すごいの。ほんとは頭がいいの。岩波文庫の本が読めるくらいに、本当はエリートだったのに、ちょっと間違えてこんなことになっちゃったの。
 ……俺、なんでこんなことになったんだろ。
 また溜息をつきそうになった気分を引き上げたのは、蒼苺ちゃんの返信だった。ってか、え、返信早っ!

苺:そうですね。その解釈も正しいのかなと思います。
私はそもそもブッディストでもなく禅も詳しくなく、禅師のお言葉をただそのまま、読んでいるだけなのです。
基本、分かることもなく解釈も放棄しています。
読んでいるというより眺めております。
私は講談社学術文庫で増谷先生の注釈を眺めつつ読みますので、なんとなく、そういうことなのかなあ、と考えています。
ですから、あなたの解釈も増谷先生の解釈も、同じくらい尊いように感じます。
あなたに比べれば私はただ禅師の言葉に漂っているだけです。意味はほとんど、理解できません。
また教えていただけたら幸いです。

「?」
 言ってることはよく分からないが……こいつ、案外バカでもないのかもしれない。増谷はたしか有名な仏教学者だ。東大卒の! エリート。本物のエリートだよ畜生。東大卒のやつはもれなく大嫌いだ。あとハゲないジジイも大嫌いだ! 増谷がハゲてるかどうかなんか、知らないが。
 だが……俺は蒼苺ちゃんのよく分からないそしてやたら長い返信を読み返した。
 バカではないのかなあ、と思うのは、たったあれだけの俺のリプから俺と増谷が互角の能力だと瞬時に判断しているからだ。というかこれで普通くらいの判断力なんだけど、世間ってもっとバカだ。バカだから俺がものすごく頭がいいということにはまず、気が付かないんだ。
 ということはこの女、俺の次くらいに賢いんじゃないか? 正法眼蔵読んでるくらいだし。俺はバカな女は嫌いだが、頭のいい女の子は好きだ。

俺:ボクは、先に「八大人覚」を読んでいるのですが、道元自身もそれが最期の教えになったようで、凄く切迫感が感じられましたね。哲学書なのに感動しました。あとは、「生死」はとても読みやすかったですから姫宮さんのような初心者にもおすすめです。ボクもまだ一巻しか読んでませんが、「仏性」「観音」「恁麼」などはよく書けていると思いますね。

 うわ、俺すごい頭よさそう! 缶の底に残ったスカロングゼロをあおってエンターキー押しちゃう。送信完了しちゃう。これもう頭良すぎて、まわりの人間なんの話してるか、分かんねえだろうなあ。ごめんね、おいてきぼりにしちゃって。クククと喉を鳴らしていたらまた蒼苺ちゃんから返信がきた。

苺:素晴らしい感性と知性をお持ちなんですね、羨ましくなります。
私は年代順に一巻ずつ読みまして、今三冊目に突入しました。一、二冊目は正直なんのこっちゃ日本語から分からずまず漢文を勉強しました。
私がはっきりと理解できたのはノグソの始末の仕方だけです!!

「?」
 ノグソ? 野糞のこと? なんでこいつ野糞とか言うんだろ。っていうか女の子だろ、女の子がそういうこと言うんじゃありませんっ、お父さんが悲しみますよ! でも俺はたいへん心が広いので、それくらいでは何とも思いません。若い頃だったら「ないわー」で切り捨てたはずだが今の俺は寛大なのである。俺は蒼苺ちゃんの勉強のためにわざわざ、俺のホームページのリンクを送信しといてあげた。これは俺が五年かけて執筆した正法眼蔵完全訳で、まだ四ページしかできていないがいずれ完成する予定だ。誰も褒めてくれたことがないが、蒼苺ちゃんにならひょっとして、この仕事の偉大さが分かるかもしれない。
 俺はぬふふと笑ってこたつの中で寝転んだ。
 夢の中で会った蒼苺ちゃんは、高校時代のクラスでいちばんの優等生のゆかりちゃんに似ていた。若々しいポニーテールが俺の心まで揺らした。

 それからはツイッターを見るのが楽しみになった。蒼苺ちゃんと俺はもう仲良しだ。俺は毎日、あの子のツイートに最低一個はいいねをつけるようにしている。全部片っ端からいいねしてもいいんだけど、ストーカーと思われては困るのだ。あくまでクールに、たまにいいねってするくらいがちょうどいい。
 そしてある日、一つもいいねがつかなかったら、蒼苺ちゃんは不安になるわけだ。
 俺が来ないと物足りない日常。それに気づいたらもう、蒼苺ちゃんは俺に惚れているだろう。
 ぬははははは!
 と、思うんだけど、蒼苺ちゃんは俺がいいねをしなくても特にメッセージを寄越してこなかった。ないとは思うけど、ひょっとして……蒼苺ちゃんは俺のこと気づいてない? 俺は蒼苺ちゃんを見ているけど、蒼苺ちゃんは……いやいやそんなことがあるものかよ。
 あの子はきっと俺を待っている。俺の決定打を待っているのだ。女って、そういうところあるよなあ。
 俺はアズキルーペを外してごしごしと目をこすった。

【正法眼蔵】海のように
なんて短い章なんだ……そして全く分からない。
しかし分かったこともあります。読める章と全く読めない章何が違うかが、もう分かりました。
抽象度です。私の最も不得意とする分野。
禅とは何なのか、おぼろげに見えてきた心地がします。
例によって的外れかもしれませんが。

 正法眼蔵に「海のように」なんて章はないと思う。俺も読破したのは一巻だけだから、ひょっとしたらあるのかもしれないけど……蒼苺ちゃんの解釈は滅茶苦茶なので何を言っているかも分からないし、せっかく勉強しているのにここまで我流では意味がないなと思う。どうせ読むならきちんとした指導者が必要だろう。たとえば、俺のような!

俺:差し出がましいようですが、分からないのであれば、ボクの解釈を参考にされるといいと思います。

 と言ってもう一度リンクを送ってあげた俺に、蒼苺ちゃんは遠慮しているのかこんなことを言う。

苺:まだその域に達していないので、読んでも理解できそうにありません。
注釈書の類もまだ一冊も読んでいないのです……
先に唯識と、主要経から読まないとほぼ意味がなさそうですね……すみません。

 いや、だからそうじゃなくて! 俺の解説を読めっての。バカでも分かるように完全解説しているんだから!

俺:そこにも書いてありますけど、多くの言葉を聞いたり話したりすることは、あまり仏教理解の可不可には関係ないです。ボクのように分かる人間は何でも一度で理解します。学術書など読む暇があれば、座禅した方がいいくらいですよ。

苺:恥ずかしながら私はお経をひとつも通読していない……そういうレベルなので……まず法華経から読もうと思っています。
私はブッディストではないんですよ。

俺:ボクはたまたま曹洞宗ですが、お寺のお坊さんの意見はこうです。「仏教は実践の宗教だ」と。ボクもそれは正解だと思います。いたずらに経巻を読み漁るより、大乗戒を実践するほうが百倍尊い。まあ、若い方は仏教哲学に惹かれるのでしょうが、そういうものは実践の中でつかんだほうがいいんです。

苺:?
すみませんが、私は宗教・哲学としてこの本を読んでいません。単純に、美しい日本語だから読んでいるだけなのですが?
罰当たりかもしれませんが……仏教をするつもりはないのです。

 はあ? 俺ははじめて蒼苺ちゃんをバカなのかなと思った。この女が何を言っているのか、さっぱり分からない。仏教書を読んで宗教じゃないとか意味分からん。俺はがっかりしたが、まあいいや。蒼苺ちゃんはまだ若い女の子なのだから、俺が教えてあげればいいだけだ。どうせ教えるんなら、下手に小賢しいより、ズブの素人の方がやりやすいよ。
 ついでに俺好みに色んなことを教えてあげようか。

 その日また俺は夢を見た。蒼苺ちゃんは白い肌と細い手脚をもっていて、苺というよりは羽二重餅のようだった。女の子はちょっとバカなくらいが丁度いい。きっと俺と会ったらあまりの頭の良さに驚いて、俺を尊敬してしまうだろうな。

 蒼苺ちゃんは仏教だけでなく様々な文学に興味があるそうだ。はっ、文学ときましたか! 俺も昔は作家になろうと思って色々読んできたけど、最近の文壇はクソだ。ひとつも面白くも巧くもない作家が話題性だけでもてはやされて、本当に腐っている。読むべき作家なんてほとんどいない。
 どうせ読むならシェイクスピアでも読めばいいのに、蒼苺ちゃんは日本の作家ばかり読んでいる。

【再読】金野ひかり先生「猫にピアス」
すぴか賞・芥子賞。今この作品をひかり先生はどう読むでしょうか。
私はカワイイと思ってしまった。
全編とにかく即物的で性の話ばかりしているのも虚勢というか、肩に力が入っている感じで。そのわりに男がやたらロマンチストとか。懐かしいあの頃が詰まってる。

 珍しく正法眼蔵以外で俺も読んだ小説の話が出てきたので、俺はすかさずリプをつけた。こんな小説読んでちゃダメだよ蒼苺ちゃん。こういうのは君には似合わない。君はもっと頭のいい、清楚で可憐で細くてかわいくて、大和撫子って感じの女の子のはずだ。ピアスなんてとんでもない。日本の女の子には、ピアスなんて必要ないだろ。親から貰った大事な体に傷をつけるだなんてどうかしている。
 そして一番間違っているのは、こういうセックスだのバイオレンスしか書いてないようなペンキの落書きみたいなものに芥子賞なんか与えてしまう文壇の方だ。
 芥子賞も墜ちたもんだよ、芥子龍之介が電信柱の後ろで泣いているぞ!

 蒼苺ちゃんからの返信は有り得ない内容だった。

苺:読みはそれぞれ自由だと思いますが、私はセックスもバイオレンスも「強がり」だと思いましたけど。
その奥にあるのは純真な少女の願望ではないでしょうか。
そこが評価されて、受賞したように思います。
話題性とか若さだけではないと私は思いますが?
あなたには読解力が足りないと、今までに何度も思いました。いちいち指摘するのも面倒くさいくらいです。
何の賞を受賞したからではなく、この小説、魅力あると思いますよ。たぶん世代が違いすぎて、感覚が分からないんじゃないですかね?
ひかり先生も、おじさん向けには書いていないと思いまーす!

 残念だ。せっかく仲良くなったのに、本当に残念だ。この女、やっぱりただのバカだった。バカだから、あんなもんが好きなんだ。正法眼蔵より猫にピアスが好きとか、そこらへんの頭がパーなギャルそのものじゃないか。がっかりした。俺は心から落胆した。

俺:そうですか。ボクは文壇には疑問を抱く人間なので、姫宮さんのようにオ利口サンではないんです。まあ、姫宮さんの大好きな猫とピアスをボクが評価できなかったから、あるいは正法眼蔵を誤読しているから、そのように軽蔑なさっているのでしょう。売られた喧嘩を買いたくはないので、ボクは消えますよ?

 謝るなら今だぞ。俺はもうお前になんにも教えてやらねえぞ。土下座して泣いて許してくれって言ってご奉仕するなら、考えてやらんこともないんだが? と思っていたら、あろうことかこの女、俺のこのツイートを引用リツイートして自分のフォロワー三千人に向けて晒し上げやがった。

クソ苺:芥子賞のわりに、だの、話題性が、なんて言う人を見ると
「あーこの人、芥子賞欲しいんだろうなー」
なんて思ってしまう。悔しいんだろうなあ、羨ましいんだろうなあ?
だってこんなおじさんに、猫にピアス、書けるわけがないもんなあ!
喧嘩売られたから爆笑しながら突いたら私が吹っかけたことにされて不完全燃焼でござる!
もう少し頭のいいヤツはおらぬか?

 俺はこの性悪クソババァを即ブロックしたが、それでも腹の虫がおさまらない。頭の悪いこいつのフォロワーどもがすごい勢いでその下品なツイートにいいねしていってるのが、本当にイラつく。
 低能の上に最低だなこの女は。ここまでのゲスは見たことがない。ツイッターなんてクソの吹き溜まりみたいなところだ、それは分かっている。だが、ここまで劣悪な人間ははじめて見た。
 何をどうやって育ったらこんな風になるって言うんだろう!
 いや、思えば最初からなんかおかしかった。会話が噛み合ってなかった。こいつ、俺の親切をひとつもありがたがってなかったし!
 なんてヤツだ、最低だ、クソババァだ、野糞だ、ドブスだ! こんっな歪みきった性格の女、ブスでデブで中卒に決まってる!
 俺はいつもは開けない二本目のスカロングゼロを飲み残して、バタンと仰向けに倒れてしまった。

 朝になって血の気が引いた。
 ブロックした相手でも、こちらから見ることならできる。昨日の件を反省して苺が土下座でもしているんじゃないかと念の為見に行った俺は、とんでもないツイートを目にしてしまったのだ。

【性別】
今まで特に答えてなかったけど、弊害が出てきたんで公表しますが……
私の性別は漢です。
インテリ男性か、かわいい女の子には目がないです☆ 両刀だけど、ただのボンクラにゃ用はねえから、おっさんは気をつけて話しかけてよねえ?
女性には全力ジェントル対応中!
おはよう、漢と素敵な乙女たち☆

「おとこ……姫宮蒼苺で……両刀の男……」
 蒼く色づいた視界が奈落に突き落とされて白く、染まる。
 深酒の影響かわんわんとうるさい耳鳴りを聞きながら俺は、そのまま脱力して意識を手放した。
 ああこれこそまさに、身心脱落。
 俺はひとつ、悟りを得たのだ。

 ネット上の女の子なんてほとんどみんな、ネカマなんだ。


(了)

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