みーくんと乙女の涙

 ある日のことでございます。麦わら帽子の乙女が近所の公園の遊歩道を独りでぶらぶら歩いておりました。あたりの樹々は涼し気な陰を作り、風はそよそよと青い葉の間を通り抜け、くすぐられた木の葉たちが恥ずかしそうに身を揺すってはカサカサと音を立てました。そしてその樹の太い幹からは、うっとりするような妙なる蝉の音色が、夏の盛りを告げてどこまでもどこまでも響き渡っておりました。
 公園はちょうど、朝と正午の境目なのでございましょう。
 乙女はふと、足元の自分の影を見つめました。夏の日差しが強くて、影が墨のように黒ぐろと遊歩道にこびりついているのが珍しかったのでありましょう。
「あら?」
 乙女は目を瞬いてそこにしゃがみ込みました。乙女の可憐なサンダルの足元に、みみずがいっぴき、息も絶え絶えに伸びておりました。
 びろんと腹をさらして、干からびかかっているのです。
「まあ、かわいそうに」
 まるでふうふうと荒い呼吸を繰り返す人間のように、柔らかい節々を伸び縮みさせて、みみずは太い身体でのたうちました。乙女が今までみた中ではもっとも太い、それは公園でいちばんの大みみずなのでございました。
「ここまで大きくなるのに、何年もかかったでしょうに。それがどうして、こんなところで干からびかけているのかしら」
 乙女はバラ色の頬を少し傾げて、じいと大みみずを見つめました。みみずは紫色に変色した身体をくねらせて、乙女の方へと目の退化したお顔を向けて何か言いたげに苦しそうに、熱した土の上でのたのたと暴れるのでした。

 さて、こちらは大みみずでございます。
「ふう、ふう。暑いぞ、熱いぞ、ふう、ふう、ふう」
 みみずは普段、暗くてじめじめした土の中をのらりくらりとしておりますから、こんな真夏の干からびた土の上は息苦しくて仕方がないのです。
 今まで燦々と降り注いでいた太陽も、みみずにとっては恵みの光でもなんでもなくて、ただ迷惑な死の照射でしかありません。まるで鉄板の上で熱せられたステーキ肉のような心地で、もうここまでかと諦めかけておりました。
「……おや?」
 するとどうでしょう。一点にわかにかき曇……ったようでもないのに、清浄な黒い影が身体に差したのに気がつきました。みみずは視力はたいへんに悪いですが、明暗にはかえって敏感なのであります。
「なんという素晴らしい暗闇だ! これは助かるぞ」
 ようやく生きる希望の一端を掴んだ大みみずは、なんとか元気を出して地面の下の薄暗いところへ戻ろうと身を捩り始めました。
「ああぼくは油断をしていた。ぼくもこんなに太くたくましくなるまで生きていたから大丈夫だと思って、昨日はついつい度が過ぎてしまったのだ」
 昨夜は、みみずの大宴会があったのでした。月の光もさやさやと、銀色に輝く夜でした。大みみずはこのあたりでは「みみずのみーくん」と呼ばれて一目置かれておりました。
「ハイ、みーくんの! ちょっといいとこ、見てみたい! それ、一気、一気、一気一気一気!」
 若くてほっそりした桃色の美しいみみずにノセられて、みーくんはついつい深酒をしておりました。
「ウィック! いやぁ、まいったなあ。もう飲めないよぼくは」
「またまたぁ。あなたほどの大みみずが、そんな弱いことでどうします。それじゃあ示しがつかなくってよ、うっふん!」
 このみみず、男をその気にさせるのがやたらとうまいのでございます。まるで手のひらで転がすように、おだてたりスネてみたり、身体をくねくねさせるもので、みーくんはすっかり骨抜きでございます。いやいや、はじめから、みみずには骨はありませんでしたね。とにかくデレデレに酔っ払ったみーくんは、いい気持ちで身体を伸び伸びと夜風にさらして、一の字になって土の上でぐでんと転がっておりました。
「ふぃー、酔った、酔った! ぼくも毎日土を耕して、こねて、混ぜて、こう見えてストレスが溜まっているのだよ。まあ、若いきみらには、分からないだろうけどねえ」
「はあ、そうなんですか」
 気がつけばみーくんの周りには、あの美しい桃色みみずはいなくなっていて、出来上がった青年みみずたちがゆらゆらしながら適当に相槌を打っています。
 酔っ払ったみーくんはいい気分になっておりますから、迷惑がられているのもおかまいなしに、大声で武勇伝など語っております。
「だいたい最近の若いみみずは根性が足らんな! これはゆゆしき、事態であるぞ。みみず界全体の民度の問題なのだぞ。ぼくの若い頃はこの公園の改装工事をしていて、毎日おそろしいユンボが土をひっくり返しては、だなぁ」
「へえ、へえ。そいつはつろうござんすね」
「つらいなんてぇ、生ぬるいもんじゃあ、ない。お前も一度食らってみろ。ぼくの仲間のみみずが何びきも、身体を引き裂かれてあれは壮絶な体験だったなぁ。こちとら何も悪いことしてないのに。ウィック、ふぃ~」
 おじさんの自慢話ほど長くてつまらないものもないのは、どこの世界も同じでございます。若いみみずたちは白けた感じでいっぴき、またいっぴきと、隙きを突いてはおうちへ帰ってしまいます。
「サーセン、みーくんさん。うちで子どもが泣いているんでそろそろ帰らしてもらいますね」
「ウィッ、そうか、そうか。気をつけて帰れよ」
「あー、すみません、みーくんさん。カミサンから鬼ラインが来てて、もうドアにチェーンかけるわよって……こいつはヤバいんで、お先に失礼しますね」
「嫁が怖くて、酒が飲めるか~! もう一杯付き合えよぅ、よぅよぅよぅ」
「ひえっ。堪忍してくださいよ、みーくんさん……」
 みーくんは太い身体を若いみみずに巻きつけようと思いましたが、そのケのない新婚のみみずはみみずとは思えないほど素早くピュウッと逃げてしまいました。
「ちぇっ。なんだなんだ。最近の若いもんは、ノミュニケーションの重要性が分かっていないんだな。ウィック! ああ~いい風。気持ちいいなあ。なんて素敵な晩だろう!」
「みーくん、みーくん。あんたちょっと飲みすぎよ。そろそろ帰った方がいいんじゃなぁい?」
「うるせえ! ぼくをそのへんのみみずと一緒にするんじゃないよ。ぼくはもう、何年もここらで暮らして死線を何度も越えてきた不死身みみずであるぞ。太陽に焼かれてたとえ黒焦げになったって、滅多なことで死にゃあしないのさ、ウィ、ウィーック!」
「もうダメね。完全に酔ってるわ。あたし、知らないから!」
 太った世話焼きみみずはぷりぷりしながら、帰ってゆきました。もう空も白みかけて、宴会はお開きです。あれだけうごめいていた老若みみずたちも、みんなすっかり土の中へと戻っておりました。
「意気地無しどもめ、だらしのない。いいもんね。ぼくはこの広い公園を独り占めしてやるぞい。あー、気持ちがいいなあ。もう一眠りしちゃおっと。ふふふ」
 素敵な晩は尾を引くようにゆっくりと退出してゆきますが、腹を出して寝ているみーくんは気が付きもしません。いい気持ちで美しい桃色みみずと絡まり合う甘美な夢を貪っております。
「いやんばかん」
「うふふふ。おい、こら、おまえ。そんなに身体をこすりつけたら熱いじゃないか。情熱が過ぎるぞ、このー」
「だってえ。みーくんが太くてたくましいんですもの」
「ふっふっふ、そうだろうそうだろう……いや、待て。流石に熱いぞ。おまえ、ひょっとして熱があるんじゃないか」
「さあね、おほほほほ」
「熱い、熱い……息ができな……あっ!」
 そこへ来てようやくみーくんは目を覚ましました。ガンガンと響く頭痛は二日酔いのせいだとしても、この身体の乾きと痛みはどうしたことでしょう。
「ああ、しまった! 眩しーい!」
 みーくんは悲鳴をあげてのたうちました。あたりはすっかり朝になっています。さっきまでしっとりしていたはずの土は乾ききって固く閉ざされていました。
「な、なんということだ……」
 ぐんぐん上がる気温、ひび割れる大地。もうここは楽しい地上なんかではありませんでした。地獄の始まりです。
「ああ!」
 絶望のあまり震えながら、みーくんは首を伸ばせるだけ伸ばしました。
「せめて日陰か……できれば水分を……ください」
 そうは言っても助けてくれる者は誰もいません。みみずたちはみんな、土の中で今日も当番制で土を耕しているのです。非番のやつらはみんな、寝坊して昨日の酒を分解していることでしょう。
「神様! どうか雨を降らしてください。もう二度と深酒はいたしません。二度と若いみみずの足を引っ張ることも、くどくどと自慢話をするのもやめます。どんなに奇麗なみみずにおだてられても、酒なんかもう飲みませんから!」
 おいおいと泣きたい気分でしたが、もう身体は乾ききって、涙一滴流せやしません。
「まあ、かわいそうに」
 みーくんは天から降り注ぐその声にすがりつきました。
「かわいそうと思うなら、女神様、どうかぼくにお恵みを……!」
 するとそのときです。
 ぽたん、と一滴の甘露のような雨粒が、みーくんの身体に落とされました。
 いいえそれは甘露でも雨粒でもありません。あの麦わらの乙女の涙だったのです。真珠のごとく煌めく涙がみーくんの身体の隅々まで染み渡り、やがてみーくんはたくましい人間の男にその姿を変じました。
「ありがとう、お嬢さん。あなたの清い涙のおかげで、ぼくの悪い魔法が解けて、こうして元の姿に戻ることができました。お礼にあなたを妻に迎えましょう。ぼくは人間の世界では石油王でした。石油を掘って大儲けしていたら、貧乏人どもに呪いをかけられて、そんなに掘るのが好きならみみずにでもなってしまえとこの姿にされてしまったのです」
「まあ、なんてことでしょう!」
 驚く乙女の手の甲に口づけて、みーくんは跪きます。乙女は恥じらいながら頬をそめて、涙にうるんだ瞳でこっくりと一つうなずきました……。

「なーんてこと、あるわけないか!」
 そう言って麦わら帽子の乙女は立ち上がり、あくびをして浮かんだ涙の粒を指先で払うと、足元で干からびてピクピクしている大みみずを見下ろしました。何があったかは知りませんが、もうこのみみずは助からないのでしょう。自然の摂理です、仕方がありません。
「あっこら、サトミ! いけません」
 急に自分の名前を呼ばれて、乙女は驚いて顔を上げました。小さな白い犬が乙女の足元を嗅ぎ回っていたかと思うと、嬉しそうにみみずを咥えて走ってゆきました。その先で飼い主らしき中年女がキンキンと叫びました。
 サトミというのは乙女の聞き違えでした。
「ああもう、サトリは本当にバカなんだから。みみずなんか、ばっちいから捨てなさい。ほんとにサトリはダメな子ね。ネハンはこんなにいい子なのに、どうしてまったく……」
 飼い主の足元で同じような大きさの黒い犬が何やら誇らしげにふんぞり返って、サトリと呼ばれた白い犬はシュンとなってみみずをぽいと吐き捨てました。
「サトリは悪い子だから、おやつはナシですからね。そんなに好きなら一生みみずでもかじっていなさい。ネハンちゃんはいい子だから、帰ったら涼し~いお部屋でおやつでちゅよ」
 とぼとぼと飼い主についてゆきながら、サトリはチラチラとさっき捨てたみみずを名残惜しそうに見ています。
「悟りに涅槃……」
 乙女は死んだような目で犬たちとおばさんを見送り、やがてまたどこかへ向かって歩きはじめました。
 ぐんぐんと気温の上がってゆく夏の公園には、耳がとろけてしまうかと思うほどの甘美な音色が響き渡ります。きっと極楽でだって、こんなに素晴らしい独唱は聴かれないに違いありません。
 みーんみんみん、みーんみんみん。
 公園はちょうど正午なのでございましょう。

 ところで私がなぜこの話をしたかと申しますと、私もまた「みーくん」と呼ばれておるからでございまして。無論みみずのみーくんではございません。ミンミン蝉のみーくんと申します。
 さて、そこなお嬢さん、私と宝物(ホンモノ)の恋、しませんか? いのち短し、恋せよ乙女。何を隠そう私も前世は石油王でしてね。いやいや嘘じゃありません、あっ、嘘じゃないんだって、あああ……行っちゃった。
 ええい、仕方ない、もう一度最初から。寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。夏の間にゃ鳴かにゃソンソン。どちらさまもちょいとお足を止めて、私めの話をお聞きください。決して損はさせませぬ。そこな社長さん、そこな子ども。そして何より蝉のお嬢さん! 特に美形蝉のお嬢さん! 夏が終わる前に、私の話を聞いてくださーい、みーんみんみん。みーんみんみん……。

 


(了)

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