ふたりはなかよし
日曜日の午後、最近ネットで話題になってきたラウンジ。
くもりひとつない一枚ガラスが目の前に明るく広がり、天井は見上げるほどに高い。軽妙なピアノ曲を自動演奏する白のグランドピアノが観葉植物のむこうに見えている。
「久しぶり! コッコ、元気してたあ?」
はち切れんばかりの笑顔でそう言った女に、向こうから来た女は真顔のままトーンの低い落ち着いた声で答えた。
「まあね、先週ロスから帰ってきたばっかでちょっとボケちゃってるけど。見たところ、あんたも相変わらず元気そうじゃない」
「ロスってまた海外出張ー? いいなあコッコは英語ペラペラでさ。あたしなんか英語ずっと赤点だったし、映画だって吹き替えでみてんだよお?」
コッコと呼ばれた女、本名は孝子と書いてこうこだが、高校時代の同級生である美由里には三十路を越えた今でもそんな風に呼ばれる。
「英語なんて喋れなくたって、出張くらいはなんとかなるわよ。大事なのって何語で喋るかじゃなくて何を喋るかじゃない?」
言いながら孝子はさっと長い指を揃えてウェイターに視線を送る。
光を反射するほどよく磨かれたガラステーブルの上、ピンクの小花を散らしたカップに美由里が二杯目の紅茶を注ぎいれている。
「何をお持ちしましょうか」
「そうねえ、私は……エスプレッソでいいわ。喉、あんまり渇いてないから」
「かしこまりました」
足音を立てずに立ち去ったウェイターの背中を見送って、美由里はうす桃色のルージュをひいた唇をつり上げた。
「んー、でもやっぱりあたしは無理かなあ。そもそも怖いから一人で海外なんて行けないし。だいたい英語できるひとと行っちゃうから、あたしいつもなーんにも喋ってないかも」
うふふ、と笑って美由里は紅茶の香りを薄く吸い込んだ。
「ああ彼氏? あんたまだあの証券マンと付き合ってたの」
「ええー。違うよお。それ、前の前の前の彼氏だし。証券、メガバンク、公務員ってきてるから。季節が変われば彼氏も変わっちゃうんだよねえ。長続きしなくて嫌ンなっちゃう」
美由里は意味もなく明るい色のウェーブヘアにパステルイエローの爪の並んだ指先を絡ませて、自嘲するようにそう言った。胸元でふわふわのシフォンのフリルが揺れて、美由里は姿勢を正してその大きな胸を持ち上げた。
「へえ。じゃあ今の彼は公務員? いいわね安定志向で。私は外資系だしボーナスの査定が読めないから。所得税ってほんとやっかいじゃない? 前年収入で課税するんだもの。結構バカにならないのよねえ、あれ」
孝子はそう言って今届いたばかりのデミタスカップを持ち上げて、細かく立ったクレマを舌先で味わった。
ガラスのテーブルの下、細身のパンツに包まれた孝子の長い脚が組み変わる。ロイヤルネイビーのハイヒールの先端がすっと尖って美由里の視界を横切った。
「うわあ奇麗! それってルブタン? いいなああたしも一度でいいから履いてみたあい」
「ルブタンじゃないわよ、靴底赤くないでしょう。これは、マノロ」
「すごーい。いいなあコッコはヒールの高い靴履けて。あたしなんていっつもぺたんこのやつだよ。でも、コッコ背高いから、そんなの履いたら百七十くらいなっちゃってんじゃない? そこらへんの男より全然カッコいいよお」
肩をすくめて髪を揺らして、美由里はマキシロングのチュールスカートからバレエシューズの先端を覗かせて見せた。
「そう? ロスではこれでも埋もれちゃって、全然そんな風に思わなかったけど。あんたは昔から小柄だものね。日本の男って自分より背の低い女と結婚したがるじゃない? あんたはほとんどの男からストライクゾーンで、羨ましいくらいよ? その公務員の彼は何センチなの?」
「…………実は今は特定の彼氏っていないんだ。その公務員とも半年前に別れて。あいつマザコンだったから、こっちから願い下げだけどね。でも来週ひとと会うことになってるの。今度はマザコンじゃないといいんだけどねー?」
うす桃色の口紅をカップのふちにつけながら、美由里が首を傾げる。
「もしかして、それってお見合いってこと? ふうん、あんたもとうとう婚活とか始めたわけね」
デミタスを長い指先で弄びながら孝子は目を三日月の形にして正面から美由里を見つめた。
「んー。お見合いっていうか、ちょっと会ってみる感じ? 大人になったらもう出会いとかないからさ。そんなに必死で探してるわけじゃないけど、なんとなく? みたいな」
「日本の男って幼稚だから」
と、孝子は声のトーンを上げた。
「その点、ラテン系はやっぱりノリが違うわよね? この前ミラノに行った時は、追い払うのに忙しいくらい声かけられて鬱陶しかったもの。日本の男って女の若さにしか価値を見いだせないんでしょう? それじゃ婚活なんてしたって無駄よ無駄」
「そうかなあ。あは、でもさ、イタリアってすっごいスリとか多いんでしょう? コッコだから絶対そんなことないとは思うけどお、もしかしたら日本人はお金持ってると思って近づいてきてるんだったら、こわいなあ?」
にこにこと笑いながら美由里はそんな冗談を飛ばした。孝子はきゅっとエスプレッソを飲み干して、さすがに苦かったのか少し眉間に皺を寄せた。
「ああそういえば」
も一度孝子はテーブルの下で脚を組み替える。猫が雀を目で追うように、美由里はネイビーの靴の先端を追いかけた。
「この前久しぶりに銀座に行ったのよ。一人でちょっと飲みたくなってね。そしたらそこですごく背の高い出版関係の男と意気投合しちゃって。出版ってやっぱりちょっと学歴高いじゃない? 会話もまあまあ知的で、つまらなくはなかったのよね、これが。あ、もちろんお酒飲んだらバイバイよ? ヘンに連絡とか寄越されても邪魔くさいしね」
「えー、それってもしかしてコリドーのこと? あそこはもはや銀座じゃないよお。新橋のが近くない? それにあんなナンパスポット、あたしは行きたくないかなあー。ナンパされるってなんか、ナメられた気がしちゃって無理かもお。どうせナンパ師なんて嘘ばっかついてくるしー」
「やだ、あの辺ってナンパスポットだったの? 最近の日本のことなんか全然分からないから知らずに行っちゃったわ。ほら、ああいうスタンディングバーが連なってるようなとこって日本じゃなかなかないじゃない?」
「有名なナンパスポットだよお。っていうかあそこで声かけられなかったら女終了って言われてるんだよー。コッコ美人だから、三十人くらい声かけられちゃったんじゃないのー?」
「…………分かんないわよそんなの。ほんの一時間ほど飲んですぐ帰っちゃったし。それに路上で声かけられたんじゃなくて、たまたま隣の席にいた男だから。お互い一人で飲むなら、お隣同士少し話そう、ってだけよ。別にナンパじゃなくない?」
二人の飲み物がなくなって、ウェイターがお冷やを注ぎにきた。
美由里はにこやかにウェイターに会釈をして、それを見て孝子は鼻から息を吐き出した。
「あんたって相変わらず、男相手だと愛想いいのね。女にはそうでもないけど」
「やあだあ、そんなことないよお。コッコこそ、せっかく美人なんだからもっと笑ったらいいのに。高嶺の花感出ちゃってるじゃん。おつぼね、なんて思われたらもうおしまいだよ? 結婚ってえ、高嶺の花タイプより家庭的な方がしやすいんだって」
コツコツと、その場で孝子がマノロのつま先を鳴らした。
「結婚なんて正直、罰ゲームみたいなもんじゃない? 少なくとも私は今の生活崩してまでしたいと思えないけどね? あっ、でも。ワークバランスって言うのかな、仕事を人生のほんの一部って考えてるあんまり仕事の速くない女の子が結婚していなくなってくれるのは悪くないかも。ま、うちは外資だしそういうお荷物は結婚しなくても結局いなくなるんだけどね」
ぐい、とお冷やをあおって孝子は喉を冷却する。
「そっかあ。コッコは仕事できるし頭いいから、ずうっと仕事できそうだよね? それに、コッコに似合う男なんてあんまりいないかも。いてももう結婚してたりねー? ほんとなーんで、いい男から順番に売れてっちゃうんだろね。女の子は美人で頭がよくても未婚の人いっぱいいるのに」
震える指が音を立てないようにゆっくり静かに空になったグラスを置いて、孝子は美由里に微笑んだ。
「いいんじゃない? ひとそれぞれ、幸せの形は違うでしょ。結婚に興味のない女だってたくさんいるわよ」
「だよねー。あたしも今は、してもしなくてもいいかなってテンションー」
にこにこと笑いながら、美由里のイエローの爪がチュールスカートをぎゅうっと強く握りこんだ。
するとそこへ、ラウンジにはやや場違いな家族連れが入ってきてウェイターが二人のすぐ隣のテーブルに三人を案内した。
子ども用の椅子はなかったが、ぼくひとりでおすわりだよ、などと子どもが舌っ足らずに言うのが聞こえる。
ドリンクが届くほんのわずかの時間すら待てないのか、子どもが若い女の袖を引っ張った。
「ねえママー? ぼくねえ、ママとけっこんしてあげるんだよー」
「おっ、ダメだぞひーくん。ママはパパのものだからな。どうしてもというならパパを倒してからにしろよ」
「ええー。パパなかなかたおれないよ。それにさあ? ママは、ぼくのなんだよね?」
「残念だがママはもうパパのお嫁さんなんだ」
「やだー! ぼくのがいいー!」
それは騒がしいというほどのものではなかった。子どもながらに空気を読み取ったのかそう大きな声でもなかったし、父親の方もあくまで茶化しにかかっているだけだ。
だが。若い女がうっとりと目を細めて柔らかく言葉を発した。
「ほんとに、しょうがない男たちねえ。そういうのはうちの中だけにしておいて」
三人分のくすくす笑いが孝子と美由里の鼓膜を揺らし、二人はかたくなに家族連れの方へ向けようとしない目をひび割れるほど大きくみひらいた。ガラステーブルの下、小刻みに二人の脚がわななき始める。
孝子の噛みしめた奥歯がギリギリと音を立て、美由里はうす桃の口紅がはがれるのも気にせず唇をひん曲げた。
二人の間に言葉はもういらなかった。
二人は同じ色に染まった視線をしっかりと絡み合わせ、そして無言のままで頷きあった。
孝子はすっと静かに右手を差し出した。
美由里は震える指先をそっと包み込むように優しく握りしめた。
白いピアノが明るい音色を跳ね上げる。天から降り注ぐような光の中で二人はまるで平和条約の調印でもしたかのような穏やかな微笑みを浮かべた。
友情とは、ふたつの肉体に宿るひとつの魂のことである。アリストテレス。
(了)