だからカナコさんは結婚できない
土曜日。昼間からワイングラスのふちを口紅で汚して、カナコさんは昔から変わらない芯の通った声で言った。
「で、それについて君の意見は? 是非きかせてもらいたいんだけど」
「ああ……そうだなあ、えっと……あ、そのネックレスいいですね。カナコさんらしくて、似合ってるなあ」
「あらありがと。で、質問の答えは?」
にこりとほんの一瞬微笑んだが、カナコさんの視線はそんなことでは逸らせやしなかった。
おい誰だよ、女はとりあえずアクセサリー褒めときゃ機嫌が良くなるなんて嘘っぱち書いた奴は。確か新書か何かで読んだはずなんだけど。誰の何て本だったかさっぱり思い出せないが、今度著者に会ったら僕は返金を求める権利があると思う。
僕は曖昧な笑みを浮かべながら上等なクリーム色の厚紙に印刷されたメニューを指先で弄び、黒いエプロンをまとったソムリエだかウェイターに助けを求める視線を送った。
いいから早く料理をもってきてくれ! この女黙らせろよ早く!
そんな僕の心を汲んでいるのかいないのか、目があったはずのウェイターは僕以上に曖昧な微笑みでふわっとさりげなく目を逸らし、隣のテーブルに酒を注ぎに行ってしまった。
「ねえ君、きいてる? いいのよ、思ったことズバッと言っちゃって。なんであたし、全然モテないんだと思う?」
そんなこと僕に訊かれたって困る。
身を乗り出して僕をじっと見据える猫のような一対の瞳に僕は仕方なく重い口を開いた。
「そんなことないと思いますけどね。だってほら、カナコさん奇麗だし」
「ふん」
お芝居みたいにくっきりした音で鼻を鳴らして、カナコさんは白ワインの入ったグラスにその鼻先を突っ込んだ。
「思ってもないこと言っちゃって。奇麗だったらもうとっくに結婚できてるっちゅーの!」
「いやいや、ほんと。ほんとですってば。奇麗すぎてもあんまり誘われないとか言うじゃないですか。ねえ?」
メニューカードに記された、季節野菜のバーニャカウダはまだ来ない。
まだ一品も食べないうちにカナコさんのグラスが空になってしまった。
すかさず、さっきのウェイターが戻ってきてカナコさんにワインをすすめた。
「もう少しお注ぎしてよろしいですか?」
「ありがとう、いただくわ」
にっこりと答えるカナコさんはワインなんか飲んでるようには見えないくらいキリッとしているけれど、頼むからあんまり飲ませないでほしい。
この女は昔から、からみ酒がひどいんだ。
「カナコさんカナコさん、ほどほどにしといた方がいいですよ」
「わかってるわよ~。でもここってお昼のコースは飲み放題なんでしょ。たくさん飲んだ方がお得じゃない」
しれっとした顔のカナコさんの喉にまた一口、白いワインが吸い込まれてゆく。
銀座の小さなビルの十二階のこの店は、オシャレで上質なのにリーズナブルが売りのレストランで、僕もずっと来たかった店の一つだ。同じフロアのもう一軒のレストランも同じオーナーが経営していて、そっちはいわゆる高級店の部類で、こっちはその略式版、ドレスコードもスマートカジュアルで、お会計もスマートでカジュアルなため若者にも人気が高い。
「飲み放題のワインなんてロクなもんじゃないと思ってたけど、これはおいしいわよ。ちょっと万人受け狙いな感じはするけど、嫌味なく飲みやすいし。グラスもキャンティじゃなくてモンラッシェなあたり、さすがベアトリーチェ系列よね」
カナコさんが言ってるベアトリーチェというのが隣のリストランテの店名で、この店はサーラビーチェ。ベアトリーチェの愛称がビーチェらしいからビーチェのサロン、という意味だろうか。
「カナコさんのお墨付きなら間違いないですね」
そう言って僕はまたメニューカードを見つめた。ここのコースは変わっていて、前菜が小皿で八品も来る。どれも一口サイズで手が込んでいると評判で、そういうところが女の人に受けているらしい。
カナコさんは大学時代のサークルの先輩だ。そのサークルというのが東京グルメ研究会で、カナコさんは僕らの三代前のサークル代表を務めていたのだ。当然、人一倍メシだのグルメにうるさいひとだから、サーラビーチェに行ったことがないときいたときには僕はまず驚いた。
そこそこの有名店ならほとんど制覇しているのかと思っていたから意外ですねと言ったら、トントン拍子に話がすすんで二人で食べに来ることになったのだ。
田舎から出てきたばかりの小僧だった僕にこういう食の愉しみ方を教えてくれたのは、サークル代表のカナコさんだと今もそう思っている。
カナコさんはいわゆる成金趣味だの高級料理の類がきらいで、常識的な値段でおいしいものを工夫して出せる店の方がよっぽど偉いんだ、と口が酸っぱくなるほど言っていた。まあカナコさんが言う常識的な値段は当時の僕にとってはかなりの高額だったけれど。
今日だって、日光のよく入る白を基調とした店内を見てカナコさんの機嫌がよくなったのに僕はすぐに気がついた。カナコさんはシャンデリアだのよくわからない彫像なんかがある薄暗い店は好きじゃないのだ。
「まあそれはいいんだけどさ。で、なんであたし結婚できないんだと思う? 簡潔に言って」
目のふちをほんのりと赤くして、カナコさんはまた話を元に戻した。
これはもう何か答えないと許して貰えそうにない。そう判断して、僕は慎重に言葉を選び始めた。
「一般に……いやあくまで一般に、ですよ? モテない女性ってルックスに問題がありますよね。ブスかどうかとかじゃなく、なんかこう、ぱっと見で強そうっていうか……」
「ああなるほど? 強そうっていうとやっぱりパワフル岡崎みたいな?」
あ、これ全然伝わってないな!
真面目な顔で女子プロの選手の名を口にしたカナコさんに、僕は引きつった顔で指摘する。
「いやいやそういう物理的なパワーじゃなくてね、精神的な力強さとかそういう話ですよね?」
「えっ? じゃあどちらかというとタフネス斉藤の方なの?」
……しらねーし。
っていうか誰だよタフネス斉藤って。名前からしてどうもリングネームに聞こえるが、もしかしてこのひとグルメだけじゃなくプロレス的なものにも詳しいんだろうか。
「なんかもっと単純に服とか髪型とかそういう話をしています」
「え? 強い服って何? 超合金とかそういうこと?」
わざとか。それはボケなのか。小学生男子かあんたは。っていうかもし本当に一着でも超合金スーツ持ってるって言うならならとりあえず一度着てきてほしい。
僕はウーロン茶の入ったグラスを傾けて、少し気持ちを落ち着けてから口を開いた。
前菜のバーニャカウダはまだ来ない。
「いや、今日だってあなたまっ黄色いコート着てきたでしょう。僕はいいですよ、僕は別に今更ひいたり驚いたりしませんから。もう慣れてますから。でも初対面の、それも婚活だかなんだかでこれから嫁さん候補にはじめて会うんだってつもりの男からしたら、正直、怖いと思いますよ」
「こわいって何よこわいって。だって春だし、ワンピースがネイビーと白のバイカラーだし。私、イエローとネイビーの組み合わせって大好きなんだけど」
不服げに言いつのるカナコさんに僕は勇気を持って助言した。
「だからそういうとこですよ。カナコさんがオシャレなのは分かります。それにたぶんさっきの黄色いコートがなんか有名なブランドのいいお値段のものなんだろうなってことも分かるんです、男だってバカじゃないから。だけども、やっぱり一緒に街歩きするんだったら、ふわっとしたピンクとか白とかの女の子の方がいいです。黄色にしたってもう少し面積を小さくできませんか? コートじゃさすがに目立ちすぎるでしょう!」
「ふわっとした白やピンクの服なんか、あたしに似合うと思ってる?」
鋭すぎるその声に、僕は二の句が継げなかった。
一瞬の沈黙を狙い撃ちしたかのように、ウェイターがカナコさんの前に前菜の小皿を並べ始めた。
アッという間に窓際の僕らの丸テーブルが色とりどりの前菜で埋め尽くされる。
「お話中失礼いたします。こちらから、季節野菜のバーニャカウダ。アンチョビのソースにつけてお気軽にお召し上がりください。本日のカルパッチョはカツオでご用意いたしました。新鮮なトマトのソースであっさりとお楽しみいただけます。真ん中にございますのが、フォアグラのフラン苺のマルメラータ添えでございます。とろける感触を是非ご堪能ください。そしてこちらはフルーツトマトのカッペリーニ。甘みの強いトマトをシャーベット状に仕上げております。ではごゆっくりとお楽しみください」
カナコさんのグラスにワインを注ぎ足して、ウェイターが立ち去った。
僕は話の流れをとりあえずぶった切ってくれたウェイターに心の中で両手を合わせて拝み倒した。
「さすがに凝った前菜ばかりですね。カナコさん、どれからいきます?」
「っていうかカッペリーニって前菜扱いでいいんだっけ」
カナコさんがさっそく変なところに食いついた。
「ふつうはパスタは前菜には入らないんでしたっけ? アンティパスト、とか言うくらいですもんね」
なにやらカッペリーニにもの申したそうにはしているが、トマトのシャーベットが溶けるのを気にしてか、カナコさんはフォークで一口サイズに盛られた淡いオレンジ色のカッペリーニをすくい上げた。
「おっ甘い……なるほどクリームチーズも入ってるのね。……うん、なかなかじゃない」
僕もならって、冷たいシャーベットソースのカッペリーニを口に運んだ。
あっさりしたシャレたトマトのソルベと細い麺の弾力のコントラストが面白い。冷製のカッペリーニはさほど珍しくもないが、ソースをソルベ状態まで冷やしてしまうという発想には恐れ入った。これが名店の遊び心か。
白ワインでトマトのソルベを流し込み、カナコさんが口を開いた。
「おいしいけど、やっぱり本当は前菜じゃないわね。というかたぶん、前菜が八品って触れ込みだけど、その中でも順番通りに食べるのがセオリーなんでしょうね。前菜らしい前菜と、パスタよりの前菜と、たぶんこのあと肉よりの前菜が続いてんでしょ。ってことはやっぱり、バーニャカウダからいくのが筋だと思う」
と、ぺろりとカッペリーニを食べてしまったあとでカナコさんはそんなことを宣った。
「じゃあなんでこれからいったんですか。わりと躊躇なくいってましたよね? マナーとかどうなんですかそれ」
「あたしね、マナーうんぬんより料理って冷たい物を冷たく、熱いものを熱く食べたいタチなのよね。順番守ってほしいなら一皿ずつもってくればいいだけでしょ。それに」
カナコさんはバーニャカウダに手を伸ばしながらにやりと笑った。
「いちばんおいしそうなのから食べちゃうもんでしょ、ふつう」
カナコさんのそういうところは、嫌いじゃない。
少なくとも僕はショートケーキ上のいちごを最後までとっておくようなタイプの女の子より、こういう後先考えずに好きなものをまずぱくっといっちゃう女のひとの方が好きだ。
「ねえところで話元に戻していい? 服についてはまあ君の言いたいことも分からんでもないし、ちょっと次から検討するけどさ。それだけが、あたしが結婚できない原因なのかな。服だけ直せば、もうお見合い失敗しないと思う?」
いやいやちょっと考えたら分かるだろ、そんなこと。
服を着替えたくらいじゃ、問題が解決するわけがない。
僕はしたことがないけれど、お見合いだの婚活ってたぶん、もっと総合的なものだと思うんだ。
塩気のきいたアンチョビソースをぬたくりつけながら細切りのパプリカに食らいつくカナコさんを見つめて、僕は覚悟を決めた。
こうなったら今日はとことんあんたの欠点をあげつらってやろうじゃないか。
無礼講だ!
僕はウーロン茶を飲み干して、カナコさんの折り紙付きのワインを頼んだ。
「カナコさん婚活はじめてもうどれくらいなんでしたっけ」
「三十代に突入してすぐはじめたから、もう二年になるわね」
フォカッチャやらなにやらイタリア的なパンの載った小皿を睨みながらカナコさんがさらりとそう答える。
もう二年……このひと、二年もお見合いだのパーティだのやっててまだ結婚相手が見つからないのか。
頭が痛くなってきたのは決してワインやソルベのせいではないと思う。
「二年で何人くらいの男性と会ったんですかね?」
「さあねえ。考えたことないけど。えっと……だいたいひと月に三人は会ってるとして? 一年で三十六の、二年で七十二?」
計算合ってる。ワインが二杯入っているがどうやらカナコさんの脳機能はまだまだ大丈夫そうだ。
「七十二人会ってて一人も結婚相手が見つからないってそれ、絶対おかしいですよ」
「やっぱり? っていうかお見合いだけじゃなくて、パーティーで一回二十人とか会う時もあるからもうとっくに百人以上いってるよ。絶対おかしいでしょう、こんなの!」
バーニャカウダのソースをパンにも塗りつけながら、カナコさんが憤る。
「いや、おかしいのはあなたの方ですからね? どんだけ選り好みしてんですかって話ですからね、それ」
「はあー? 選り好みなんてしてませんー。っていうかね、自分でも分かってるのよ、もう選んでられる年齢じゃないってことなんか。逆よ逆! 男があたしを選ばないの! お断りされてんの!」
「ほんとにそうなんですかね? 男って一口に言いますけどね、僕に言わせりゃ男だって色々いますよ。ほら昔から言うでしょ、蓼食う虫の好き好きとかあばたもえくぼとか、好きこそ物の上手なれとか」
「なんか最後のちがくない?」
勢い余った僕の揚げ足はきっちりと取って、カナコさんはリラックスした顔で冷たいワインを流し込む。さっきからハイペースで飲みすぎだ。
またワインを注ぎにきたウェイターを制してウーロン茶を頼んで、ぶうたれてるカナコさんに一回ソフトドリンクを挟ませることにする。
「だったらあたしウーロンよりオレンジジュースがいいなあ」
「かしこまりました。ブラッドオレンジジュースを……おひとつでよろしいですか?」
「あ、はい。とりあえずそれで」
僕のグラスにはまだワインが残ってる。
カナコさんは昔から酒のペースが早すぎるのだ。さいしょはただの酒豪なんだと思っていたけど、酒だけじゃなくて珈琲やお茶や、ペットボトルの水なんかもたくさん飲むんだと気づいてから、僕はカナコさんの酒のペースに気を配るようになった。単純に、カナコさんは喉が渇きやすい体質で、酒も弱くはないもんだからジュース感覚でぐいぐい飲むけど、考えなしな上判断が甘いからほっとくと酔いつぶれる。
僕は女の人が泥酔するのをみるのが嫌いだ。
「選り好みなんかしてないもん」
もん、って。三十路過ぎて結婚に焦ってる女の口調じゃなさそうなんだけども。
「じゃあ逆にこの二年で出会った男で、カナコさんが気に入ったのにお断りされた男ってどんな奴でした? 印象に残ってるとこで言うと?」
口紅がよれるのも気にせずカナコさんは渋い顔をしてうんうん唸りはじめた。
だいぶ時間をかけて記憶を掘り起こし、途中で届けられたオレンジジュースを一口飲んで、それからカナコさんはオレンジジュースを二度見した。
「あ、これ、あたしダメなやつ」
「ダメってなんですか。好き嫌いはよくないですよ」
カナコさんは実に大人げなく口紅がちょっとついたグラスを僕の方に寄せてきた。
「いや、なんかダメだってこれ。小さい頃小児科でもらった風邪薬の味すんだもん」
「そんなバカな……!」
ついついグラスを受け取って一口飲んでしまう。言いたいことは分からなくもないが、これは正真正銘ブラッドオレンジジュースだと思う。こんな高級な味の風邪薬出す小児科あるなら逆に行ってみたいもんだ。
「あたしオレンジジュースってトラウマなんだわ、そういえば」
「じゃあなんでさっきウーロンやめたんですかっ? 僕は最初ウーロンって言ってましたよね?」
ごちゃごちゃ揉めだした僕らのところへウェイターが颯爽とやってくる。
「お客様、何かございましたでしょうか」
遠回しに静かにしろと言われているような気がしたが、カナコさんはしれっと自家製サングリアを注文してしまった。
「あ、オレンジは彼が飲むんで。ほら、さっさとそっちのワイン飲んじゃいなさいよ。飲み放題のマナーでしょ!」
これどう考えても悪いのはカナコさんなのに、僕は勢いに負けてグラスの底に残った白ワインを飲み干した。
ウェイターが苦笑いしながら僕のグラスを下げる。
「たぶんですけどねえ、あなたのこういうところが、世の男性に敬遠されているんだと思うですよ」
「おもうですよ? 君って外人だったっけ」
「いっそ外人とかの方がカナコさんには合ってるかもしれませんよ。確かあなた、外資系勤務でしょう。英語ぺらぺらなんでしたよね」
「あ、なーる。外人ね。それ考えてなかったわー」
盲点盲点、なんて言いながらカナコさんが本日のカルパッチョにかぶりつく。
脂ののった分厚いカツオにオリーブオイルと刻みトマトのソースをかけて、味のアクセントはホールでのったピンクペッパー。オシャレだが、これなら僕は鰹のたたきの方が好きだ。
ほらこの脂ののりかた、たたきにして日本酒で流し込んだらさぞやうまかったろうに。
「あ、なにこれおいしい!」
僕が鰹のたたきに思いをはせている間に、カナコさんが自家製サングリアに目を輝かせていた。
「サングリアってなんか子供だましなイメージあるけど、ここのはおいしいわー。さっきとグラス違うし。ベアトリーチェおそるべし」
カナコさん、騙そうにもまず子供はサングリア飲みませんからね。
だがあんまりうまそうに飲むもんだから、僕も興味が出てきた。カナコさんに小児科のシロップ呼ばわりされたジュースを飲みきって、僕もサングリアを追加する。ついつい会計のことを考えて飲み放題でよかったななんて思う。
「サングリアにも赤白ご用意してございますが」
「あ、彼女と一緒で」
「かしこまりました。白のサングリアお持ちいたします」
今度はフォアグラのフランをスプーンでほじりながら、カナコさんが笑った。
「おんなじの頼むことなくない? 君は赤にすればいいのに」
「だってカナコさんがあんまりうまそうに飲むから、僕もそれ飲んでみたいなって思ったんで。おんなじのが飲んでみたいんですよ」
「いやだからさ。言ってくれたら一口あげたのに、ってこと。ま、別にいいけどね」
別にいいならほっといてほしい。
僕はフランを一口スプーンですくい、そのなめらかな舌触りを確かめる。
フランは日本で言ったら茶碗蒸しに当たるものだけど、茶碗蒸しと違うのは卵感よりはるかにクリーム感が強いこと。しっかり裏ごしされた中に、油分の重さが出ている。フォアグラの脂だけじゃなくふんだんに生クリームが使われているのが容易に想像できる味だ。味の濃さでなく脂の濃さで重厚感が表現されていて、見た目より食べ応えがある。ワインにも合うし、こういうのは洋食でないと味わえないんだよなあ。たまに食べるとすごくおいしい。
「フォアグラに苺か……斬新かと思ったけど字面ほど意外性がないんですね。ていうか、マルメラータってなんでしたっけ」
「マルメラータって要はジャムだよね。フォアグラはやっぱりある程度パンチの効いたソースでいただくのがセオリーだからなあ。あっさりしすぎると脂に負けるんじゃない? そういう意味では甘いソースも定石なのよね。柑橘系よりはベリーの方がしっくり来るかもね、たしかに。あとはまあ季節感とか」
そう言いながら、カナコさんはガラスの容器にこびりついたフランを一生懸命こすっている。カナコさんはフォアグラに目がないのだ。
「いやちょっとさすがにこそげすぎですよ、カナコさん」
「だってまだフォアグラが……」
真剣な顔でそんなことを言うカナコさんを見ていると、三十路超えなのも忘れてついつい「また買ってあげるからそこまでにしておきなさい」と言いたくなる。
にやにや笑ってしまった僕と目が合って、カナコさんは気がついたようにお澄まし顔を作って白いナプキンで口元を軽く撫でた。
「ま、フォアグラはフランにするよりか、ステーキの上にソテーして載せてんのがおいしいと思うけどね」
「へえ。そんなありきたりな感じでいいんですか。カナコさんほどのグルメ(気取り)でも」
「なーに言ってんのよ。料理は結局、定番が一番まちがいないのよ。オーソドックス万歳! だって人類の叡智の結晶よ? おみやげのお菓子も結局、定番のノーマル味が一番おいしいって決まってんだから。ちなみに私は白い恋人と、ヨックモックのシガールプレーンが好きよ」
なんだかよく分からないことを主張し始めたカナコさんのところに次の料理が、僕のところへは白のサングリアが届く。
「こちらはツブ貝と九条ネギのカルトッチョ仕立てでございます。串を外して開いてお召し上がりください」
お、これはまさに白ワインに合いそうな料理だ。
透明のセロファンのような包みの中から出てきたのはオイル仕立てのスープに泳ぐツブ貝。九条ネギが散らされてぐっと和風になっている。
「カルパッチョじゃなくカルトッチョ、ですか」
「包み焼きのことじゃないかな。これはセロファンっぽいけど、ふつうカルトッチョって言ったら紙で包んでオーブンで蒸し焼きにしたやつよね。あ、ほらメニューにカルトッチョ仕立て、って書いてある。セロファンじゃオーブン焼きできないもんねえ」
「ふうん、なるほど」
それにしてもこの人、グルメ気取りなだけあってほんとに詳しい。僕は基本うまければそれで満足するけど、カナコさんはうまさに理由を追及するタイプだ。
サークルに入ったばかりで、ただうまいものをうまいとしか言えなかった僕に「うまいなら何がどうしてうまいか考えろ、味の素因数分解をしろ!」とくだを巻き始めたカナコさんを当時の僕はカルチャーショックと共に脳裏に刻みつけた。
味の素因数分解はカナコさんの口癖で、味には甘酸塩苦うま味の五味があり、すべてはその配分で評価されるというのがその主張だ。だからたとえばラーメンなんかを食べても、素因数分解して甘味一、塩味三、うま味二のバランスだとかその内容がうま味のトンコツとサバ節の混合だとか、そういう独自評価をしているらしい。それとは別に食感の素因数分解がどうとかで味と食感の掛け合わせがうんぬん、と講釈は無限に続きそうだったけど、僕は前半の半分も理解しないうちに彼女の話を受け流したからその全貌は掴めていない。そして何より、掴みたいとか思ってもいない。
で、そのカルトッチョ風のツブ貝を口に運んで僕はすぐに和風パスタを連想した。
「これはなじみ深い感じの味ですね。嫌いな日本人少ないんじゃないかな」
「でもトリュフバター風味って書いてあるけどね」
「バターですか。オリーブオイルかと思いましたけどね。っていうかトリュフ入ってました? ニンニクに隠れて全然わかんないなあ」
セロファンの中をかき混ぜて探してみたけど、僕にはトリュフのかけらも見つけられない。
「カナコさんトリュフ感じました?」
そう訊いてみたら、カナコさんはツブ貝を噛みしめながらあっさりと首を振った。
「うんにゃ、全然。言われても気づけないレベル。こりゃあトリュフの無駄遣いだねえ。あたしの貧乏舌じゃ感知できないわ」
トリュフなんだから舌より鼻の問題じゃないかな。何にせよ、せっかくのお心遣いだが僕らにはトリュフは不要だったみたいだ。ツブ貝はしっかり味が出ておいしいけれども。
「しっかし……ここまでの腕前とは言わないけど、あたしだってそこそこ料理できるのよねえ。なのになんで、全然結婚できないんだろ」
サングリアのグラスを弄びながらすっかりほろ酔いのカナコさんがまた話を強引に戻してきた。
実際、カナコさんが料理ができるというのは嘘ではない。
サークルのお花見の時だったか、一人一品料理を持ち寄る企画があって、そのときこのひとが作ってきたキッシュは確かにプロ顔負けの仕上がりで、みんなで奪い合って食ったのをまだ覚えている。
これだけ料理にくわしくて四方八方で名店の味を食べ散らかしているのだから、ある程度は作れたって不思議もないんだけれども。
「まあでも方向性の違いってありますよね。正直男って、家で食うならイタリアンやらフレンチなんかよりご飯と味噌汁の方がいいんですよ。おふくろの味っていうやつです」
「うわあ出たー。おふくろの味ー。うげえー」
カナコさんがカラカラと喉を鳴らして笑う。
「いや、だってそうでしょ。たまにならいいですけど家で毎日食うなら絶対和食ですよ。コレステロールも心配ですしね?」
「和食くらいあたしだって作りますー。肉じゃがだろうが筑前煮だろうがまかせなさいよ? ほんと、あんたも一回食べてみなさいよ、ちゃんとおいしいから! ちゃんと面取りとかするから、あたし!」
「はいはい、飲み過ぎですからね、完全に今酔ってますからね、あなた」
よってなんかいましぇんー、というその呂律が限りなく酔っぱらっている。
「この前みっきーも言ってたのよね。家にあるものでぱぱっと料理作ってくれる彼女がいいって。あたしもぱぱっと作るのになんでー」
「みっきーって誰ですか。浦安のあの鼠のことですかまさか」
頭の中に一挙にファンタジーな世界が広がった僕に、カナコさんがケタケタ笑いながら昔みたいに小さく「ばっかねえ」と言った。
「みっきーって言ったら橋本光喜くんでしょ。ラブアディクトのみっきーだよ」
今度はアイドルかよ。
たしか最近やたらごり押しされて映画に出まくってるアイドルの名前がそんな名前だった気がする。僕は顔すら思い浮かばないようなもう十歳以上年下のアイドルを平然と友達感覚で話に出してくるこの神経、イタイにもほどがある。
「あのねえ、カナコさん。三十路過ぎてアイドルの発言真に受けてちゃダメですよ。そりゃあ料理はできた方がポイント高いです。でもだからって、料理できたからって、あなたみっきー君の彼女になれませんからね。いい加減現実見ましょう、ね?」
「でもみっきー、年上も好きだってラジオで言ってた」
カナコさん、それは完全な人気稼ぎですよ!
気づいてください、あなたとっくにいい大人なんですから。なんならおばさんになりかかってますから、ね?
頭がくらくらしてきた僕はもう一杯サングリアを追加して、いっそのこと酔ってしまいたいと思い始めていた。
「そうやってアイドルのラジオなんか聴いてるから嫁き遅れかかってんですよ」
「なんでよ。なんでみっきーが原因であたしが嫁き遅れんのよ。論理の飛躍よ!」
「飛躍してませんよ。いいですか、みっきーだからっきーだか知りませんけど、アイドルはみんな若くてルックス偏差値が上位五%に食い込んでるんです。年収もよく知らないけどかなり上位でしょう。そんなの見慣れてたらそりゃあ、お見合い市場で出会う男はみんなくたびれたおっさんに見えるでしょうよ。ぼんくらに見えるでしょうよ。っていうか今すでに僕がじゃがいもかなんかに見えてやいませんか?」
「じゃがいもなんかには見えてないよ。どちらかというとなんか犬に似てるよね。ビーグルとかなんかああいう耳垂れてるやつ」
「いまだかつて一度も僕の耳垂れたことありませんけどもっ?」
ついつい声が大きくなりすぎた僕は慌てて咳払いをした。
ウェイターが引きつった顔で次の小皿を持ってきた。ちらりと僕らのグラスが空いているのを見たけれど、あえて気づかないふりをしている。さすがプロだ、と僕が感心したのも束の間、カナコさんが余計な口を挟んだ。
「ここのサングリア、おいしいんですねえ」
「お……恐れ入ります」
「何入れてるんですか? グレープフルーツとか?」
「あ、いえ。グレープフルーツは使っておりません。オレンジと、それからパイナップルを」
おいこら外れてんじゃねえか、この酔っぱらい。
少しは恥じ入って黙るかと思えば、カナコさんは上機嫌に「へえ!」と陽気な声を出した。
「パイナップルかあ、なるほどねえ。ちなみに赤には何が入ってるんです?」
え、まだ飲む気なのこの人。でもまだコースはようやく折り返したところだ。このままノンアルコールで誤魔化せる気もしないが。
「赤の方は他に林檎を使用しております……」
ウェイターももう酒はやめとけやオーラを出している。
「えっとそれじゃ赤の……」
勝手にオーダーしようとするカナコさんの声に被せて僕はすかさず「チェイサーお願いします!」と割り込んだ。
「一回クールダウンしてからにしましょう、カナコさん。まだまだ先が長いですから。最後まで楽しめるように、一回お水飲みましょう、ね?」
すがるような目でウェイターを見た僕に、ウェイターがベテランの風格で答えた。
「おいしく楽しんでいただきたいので、すぐによく冷えたお水、お持ちいたしますね」
「……そ、それもそうね。じゃあ……お水おねがいします」
よし、なんとか留めたぞ。
僕らの前にはキンキンに冷えた水と芽キャベツ、それから金華豚のソテーが並んだ。
「あれ、メニュー表と順番ちがうなあ」
エビフライを飛ばして金華豚が来たことに疑義を抱いているようだ。
まさか僕らがあんまり酔っぱらっているから先に出せるものからどんどん出してさっさと帰らそうとしているんじゃないだろうな。昼間から完全に酔っぱらっているカナコさんにとっては、悪い判断ではないんだけど。
「細かいことはいいじゃないですか。あ、カナコさんこれなんかたこ焼きみたいですけど、どういう料理なんですかね」
メニューカードのフォンデゥータというのが全く分からず、僕は道化たセリフでカナコさんの注意を逸らした。
「たこ焼きぃ? 言われてみればまあ似てるわね。フォンドゥータって言ったらあれよ。チーズフォンデューとかの仲間でさ。串に刺してなんかこうやってさ……」
よく分からない身振りでたこ焼き似の芽キャベツを宙で振り振り、カナコさんはそれをぱくんと口に入れた。
「ちなみにこれはチーズではなくオイルの方のフォンデュね」
「へえ。オイルフォンデュなんてのもあるんだ……あ、甘みが出てうまいですねこれ」
芽キャベツを低温で素揚げするのだろうか。パリパリとした表面の食感と、噛みついた時に口の中で広がるキャベツの甘さの落差が面白い。見た目とネーミングほどの脂っこさがないのも意外性があって好感の持てる一品だ。
なお、メニューカードによるとこれも卵黄とトリュフのソースがかかっているらしい。トリュフ好きのシェフなのか、それともイタリアンはとりあえずトリュフを使いたがるものなのか。どちらにせよたこ焼き呼ばわりされるいわれなんてないような、やんごとなき芽キャベツであることは間違いない。
で、そのたこ焼きフォンデュをもぐもぐしてから、カナコさんは少し遠い目をしてまるで無色透明のワインみたいな顔で水をこくんとかわいく飲み込んだ。
「ほんと。たこ焼きでいいのにどうしてかしら」
「え? 何がたこ焼きでいいんです?」
ちょっと何を言ってるのか分からずに、僕はついつい聞き返す。分からないまま泳がせておけばいいのに、とまだ酔ってない僕が僕の頭の中で呟いている。
「だからね? あたしは別に、フォンデゥータでなきゃ結婚しない、なんて言ってないのよ? たこ焼きで十分……ううん、なんならたこ焼きの中にたこが入っていなくたってもう文句は言わないわ。焼き……そう、焼きでもいいのよ、おいしければ!」
「え……ええー」
あっ、聞いたら余計に分かんなくなってきた。何この人、たこ焼きのたこ抜きのこと「焼き」だと思ってんのか。
「もういっそ男だったらなんでもいいわ。この際ハゲでもデブでもジジイでもいいの。なのに、なのになんで誰もあたしと結婚してくれないのよ、くぅーっ!」
「あ、すいませんサングリアの赤至急この人に持ってきてやってください」
僕はウェイターを呼び止めて早口にそう言った。
「ねえ、なんで? 一体あたしの何がいけないんだと思うっ?」
「いけなくない。なんにもいけなくないです、カナコさんは間違ってないです! ほらほら金華豚だってそう思ってますよ。ね、だから頼むから泣かないで。僕もうこれ以上他のみなさんから変な目で見られたくないんです!」
ついついダダ漏れた本音に噛みつく代わりに、カナコさんは金華豚のソテーにいきなり銀色のフォークを突き刺した。とうとう切りもせず一口で行くつもりらしい。
もういいや、好きにしてくれ。
「一体あたしが何をしたって言うのよ……なんでみんな結婚できてんのにあたしだけ売れ残るのよ……もうなんなのほんと。あ、肉やわらかーい」
ソースはちょっと薄めねえ、などと言いながらサングリアの赤に口をつける。
とりあえず泣き出される事態だけは免れて、僕はもう何味なんだか分からないまま金華豚を噛みしめる。
このひと、だいぶ弱ってんな。
昔からルックスのわりにモテない人なのは知っていたが、まさかこれほど苦戦するとは。流石にかわいそうにもなってくるが、でも、ここで騙されちゃいけない。
なぜなら、本当に選り好みしてなくてハゲでもデブでもジジイでもいいんなら、二年もかからずとっくに結婚できているはずなのだ。
つまりこの人は自分で理解できていないだけで自然に、そうごく自然に高望みをしているに違いないのだ。
高望みが悪いなんて僕はさらさら思っていない。そのための婚活だ、したけりゃいくらでも高望みすればいいさ。それを身の程知らずだなんて言わなくていいし、そりゃ世の中玉の輿に乗る奴だっているし美女と野獣カップルだっているにはいるんだ。可能性はゼロなんかじゃない。
だけど、そういう低い確率に賭けるのは自由だが、それでいつまでも結婚できないとか嘆くのはお門違いだ。だって博打なんだから。勝てば玉の輿、負ければ嫁き遅れ。賭けなんだからいつだってリスクはあるわけで。それを絶対負けない賭博がやりたい、なんてそんなのダダこねた子供と同じだ。
「でもね、カナコさん。ハゲて太ったジジイと結婚して、あなたそれで楽しいんですか? 妥協してまで結婚する意味ってなんなんですかね」
「ちょっと待ってよ、ハゲでもデブでもジジイでもいいとは言ったけど、ハゲたデブのジジイでいいとは言ってないわよ! 兼任不可だからね、そこらへんは!」
ほーら見ろ。現実見てないんだこの女は。言っておくけど今はふさふさで笑顔キラキラのアイドル君だって、四十五十になったらハゲたり太ったりすんだからな! ハゲもデブも差別すんな! 特にハゲは努力じゃどうにもなんないんだぞ!
「お待たせいたしました、こちら前菜最後の一品となります。車エビのフライにアクセントとしてふきのとうを添えてございます。春の苦みをお楽しみください」
さっきの会話が聞こえていたに違いないのに、完全なるポーカーフェイスで用意されたセリフを淡々と読み上げるウェイターに僕は賞賛のまなざしを送った。この人のプロ意識、是非見習いたい。
「あらあ、みてこれすっごい、サックサク!」
春雨みたいな衣でぐるぐる巻きにされた見事な車エビにナイフを入れて、カナコさんは手の平を返すみたいに上機嫌になる。
「エビフライなんて言うの申し訳ないくらい立派なもんですね。衣もなんだろこれ、フリッターとかそういうやつですか」
ぱりんぱりんと小気味よい感触で僕の小皿のエビがまとった衣が崩れていく。中の身はよくしまって、ぷりっぷりだ。
僕は改めて、エビフライという料理のもつポテンシャルに舌を巻く。
「え。ちょっと今更何言ってるの? フリッターとフライの違い、前に説明しなかったっけ?」
「あれ? フライがパン粉つけて揚げたやつで、フリッターが天ぷら系ですよね?」
「天ぷらとフリッターは違うわよ。そりゃあまあ起源は一緒かもしれないけど。フリッターの基本はメレンゲなんだってば」
ああそういえば、昔まだ僕がハタチそこそこだったころ。天ぷらと唐揚げとフリッターが同じものなのかどうなのかでサークル内で論争になったことがあったんだった。そのときも確かこの人が割って入って、そうだちょうどこんな風に
「言っとくけど、これって常識中の常識よ?」
眉をひそめて十数年前と全くおんなじ声をして、カナコさんは赤い顔をしているくせに平然と、さっき来たばかりのサングリアを飲み干した。
あの頃となんにも変わらないカナコさんは、だけど今は結婚という崖っぷちに立って、あの頃は「ちょっとそこの一年」なんて呼んでた僕相手にこんな小洒落たレストランの雰囲気ぶち壊して愚痴の弾丸を連射しまくっている。
「あなたのいうその常識を」
僕は自分のグラスにまだ飲み残していた白のサングリアで唇を湿して、カナコさんの皿の上しか見ていない瞳をじっと見つめた。
「あなたに言われる前から備えていて、あなたと同じくらいの年齢で、あなたよりも年収が高い男が、世の中に一体何人いると思いますか」
「ふへっ?」
カナコさんが素っ頓狂な声を上げ、エビフライの衣の散らばった皿から目を離して、ようやく僕の方に振り向いた。
「たとえそんな男がいたとして。その男が婚活なんかしていると思いますか? 奇跡的にその男が婚活市場に出てきたとして、その男と結婚したがる女の子が一体何十人立候補すると思いますか?」
今日はじめて、カナコさんが口を閉じて赤い顔の中で目だけはすっと醒めさせて、何かを考えながら僕を見つめ返した。
僕も黙ってカナコさんの返事を待つ。
長い沈黙の間に、すっと黒服の手が差し込まれた。
「白魚とわらびのタリオリーニでございます。このあと和牛の煮込みとアスパラのフジッリをお持ちしまして、最後はデザートとカッフェになります。食後のカッフェのオーダーをいただきたいのですが、何をご用意いたしましょうか」
僕に答えるより先に、いくぶん正気に戻った声でカナコさんが言った。
「あ、じゃあマキアートで」
「僕もそれでいいです」
かしこまりました、と一礼していなくなったウェイターの背中を見送って、カナコさんはタリオリーニをフォークで混ぜながら少し冷たく言葉を発した。
「あーあ。君にまでそんなこと言われるなんて、思ってもみなかったなあ。君はあたしのこと、なんでも肯定してくれるんだと思ってた」
少し拗ねたような顔でタリオリーニを口に押し込んで、カナコさんは不機嫌を隠そうともしない。
そんな傲慢で不機嫌な僕の小さな女王様を、なぜか僕はかわいいひとだと思ってしまう。
何年も何年も、もうずっと長いこと。
「なんでも肯定するだけの人間なんて、毒にしかなりませんよ。はっきり言わせていただきますけど、あなたがいつまでも結婚できないのは、あなたのその性格のせいだと思います。決して悪い性格じゃないですけど、男ウケはしないって。いい加減あなたも気づいているんでしょう」
「じゃあどんな性格になったら、結婚できるって言うのよー」
真っ白に光を反射する高い天井を仰いで、カナコさんが遠吠えするみたいにそんなセリフを吐いた。
「あなたの性格を男に合わせて矯正するより、カナコさんをそのまま許容できる男探す方がよほど早いと僕は思いますけどね」
「そんな男いるわけないから、こんなにがんばってんでしょーが……もうやだきっとあたしもう一生結婚できないんだわ……はあー」
うな垂れて溜息をついてワインで顔を真っ赤にして。
カナコさんは切り取られた銀座の路地の景色に視線を向ける。夜景だったらたぶん、もう少しはロマンチックだったんだろうけど。あいにく外はまぶしいくらいにうららかな春の昼なかで。
ねえカナコさん、僕はどうしてあなたが結婚できないのか知っていますよ。
僕はあなたより年下だし頭も悪いし給料も安くて。食の知識もいつもあなたに教わってばかりで、何も与えられない。背だって高くもないし顔がいいわけでもない、実家もまだローンが残っていますし両親もまもなく定年を迎えるし、おまけに僕は長男です。
「あんたなんかに好かれたってしょうがないしなー」なんて笑い飛ばされないですむようになるまで、僕はあなたの隣でいつ神の気まぐれであなたが納得するような男が現れないかとはらはらしながら、あなたが夢から醒めるのをただ待っています。
男らしくないとは自分でも思うけれど、じゃあ男らしく特攻したらあなたが手に入るのかって言ったら、そういうもんでもないんですよね。
これは僕なりに考えた戦略なんです。
十八でこの人に出会ってからもう十一年。一体あと何年経ったら、この人は僕で妥協するのだろうか。
喉がかわいたな。
さっきカナコさんとおそろいで注文した食後のマキアートは、まだ僕らの席に来る気配もなかった。
(了)